2016年5月31日火曜日

オバマの広島演説ー解き放たれた大きな力の世界の中で。

 現職アメリカ大統領として初めて広島訪問をしたオバマ大統領。その事実については世間では大きな話題になったが、広島平和公園のオバマの演説に言及した報道がほとんどない気がする。ほとんどが「謝罪がなかった」とか、「被災者、被災地の人たちが(謝罪がなくとも)大統領の訪問を歓迎している」とか、「原爆資料館の訪問時間が10分程度しかない」とかが話題にのぼるのみだった。もちろん、最後の資料館訪問の時間は短すぎると自分も思うけれど、おそらくオバマは大統領職を辞したあとは、広島にじっくり時間をかけて訪問する気がするので、あまりそれらのことのみ、世間で話題に上りがちになることのみに着目したくはない。

 極めてデリケートな話題であるのはわかった上で、アメリカ大統領のスピーチの内容、特に前半部分に人間の行為の本質をよく掴み、人間社会学の要を短い文章の中で見事にまとめあげたものだ、と感心したのである。おそらくスピーチライターがいて書いたものだと思うけれども、そうであったとしても、そのライターを選択し、ライターの文章を取り上げるのは大統領のオバマ自身だから、これはオバマの心情の吐露と受けとめるべきだろう。

 人間が生まれ、文化を手に入れてからどのような「光と影」の中でこの現代まで走り続けてきたかをすくいとる。これをけして加害者の被害者への謝罪逃れのために教科書的な語りに塗り替えたのだ、とぼくは受け止めたくはない。以下、主に演説の前半部分を中心に長文だが、所感を引用する。語りだしはこうだ。

 71年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった

 この語りだしの文学的な表現が謝罪の言葉の隠蔽だと思うか、普遍的な現代の闇についての警鐘の一節だと思うかで、全体の受けとめ方も違うのだろう。
 そして、被災者への想像を込めて、被災者の魂に添いながら、人間の現代までの辿りゆきをオバマは語る。

 彼らの魂はわれわれに語りかける。(中略)心の内に目を向けるように訴えかける

 心のうちに目を向けるよう、と。つまり、これから語ることをわれわれは反省しながら、どういう経過を人びとは現代に向かってきたのか考えて欲しいと訴える。以下、長文になるがまとめて引用。

 (歴史的)遺物は、暴力による争いは最初の人類とともに現れたということをわれわれに教えてくれる。初期の人類は、石片から刃物を作り、木からやりを作る方法を取得し、これらの道具を、狩りだけでなく同じ人類に対しても使うようになった。

 狩りだけでなく、「同じ人類に対しても」使うようになったという部分が重要。

 いずれの大陸も文明の歴史は戦争であふれている。穀物不足や黄金への渇望に駆り立てられたこともあれば、民族主義者の熱意や宗教上の熱情にせきたてられたこともあった。帝国は盛衰し、民族は支配下に置かれたり解放されたりしてきたが、節目節目で苦しんできたのは罪のない人々だった。

 人間歴史の見事で簡潔な描写。「文明の歴史は戦争であふれている」「民族は支配下に置かれたり解放されたりしてきたが、節目節目で苦しんできたのは罪のない人々だった」。これ以上も以下もない尽くされた言葉。
 そして思想家たちによっても、人びとの本能や欲望のドライブは抑えられないできた現実。

 思想家は正義と調和、真実という理念を前進させていた。しかし、戦争は、初期の部族間で争いを引き起こしてきたのと同じ支配・征服の基本的本能によって生まれてきた。新たな抑制を伴わない新たな能力が昔からの(支配・征服の)パターンを増幅させた。
 数年のあいだで約6千万人が死んでしまった。われわれと変わることのない男性、女性、子どもが撃たれたり、打ちのめされたり、行進させられたり、爆弾を落とされたり、投獄されたり、飢えたり、毒ガスを使われたりし、死んだ。

 人類初期の部族の闘争の本能と支配の本能で、先の大戦まで死の暴力を国家の名の下、正当化してきたのだ。そして、人びとが生きるために必要とした発明の母はどういう運命を辿ってきたか。

 われわれを人類たらしめる能力、思想、想像、言語、道具づくりや、自然界と人類を区別する能力、自然を意志に屈させる能力、これらのものが比類ない破壊の能力をわれわれにもたらした。

 オバマはこの言葉の中で、まるでわれわれ自身の生きることそのものの根本矛盾を前に立ちすくんでしまっているように聞こえる。だが、残念ながらわれわれはその矛盾を塗りつぶすために・・・。

 物質的な進歩や、社会の革新がこの真実からわれわれの目をくらませることがどれほど多いことか。気高い名目のため暴力を正当化することはどれだけ容易か。

 まるで「神」のごとき高みからの警句のようだが、真実の言葉だし、オバマは「われわれ」のひとりとして、「こころの内に目を向けて」被災者の魂の語りを聞いて語っている、と読むべきだ。

 偉大な全ての宗教は愛や平和、公正な道を約束している。一方でどの宗教もその名の下に殺人が許されると主張するような信者を抱えることは避けられない。

 そうだ。この部分も勇気を持って公平なことを語っている。ある種の宗教原理主義から利益を得る者に対する勇気ある言辞である。どの宗教もその名の下で、殺人が許されるのだと主張する信者を抱えているのだ。

 以下の発言は既に一国の国家指導者を超えた、相当ラディカルな発言だ。これは国のリーダーとして勇気ある発言だし、オバマが「政治家」より「学者」向きの存在である事が良く示されている。

 国家は、犠牲と協力の下に人びとを結びつけるストーリーを語りながら発展してきた。(中略)このストーリーが相違を持つ人びとを抑圧し、人間性を奪うことにも使われてきた。(略)
 現代の戦争はこの真実をわれわれに教える。広島はこの真実を教える。技術の進歩は人間社会が同様に進歩しなければ、われわれを破壊に追い込む可能性がある。原子の分裂につながる科学の革命は、道徳的な革命も求めている。
 だからこそ、われわれはこの場所に来た

 オバマはアメリカに生まれ育ったわけではない。インドネシアで少年期を過ごし、思春期をハワイで、そして青年になってからアメリカ大陸に渡ってきた人だ。自由を謳歌し、自由を学んで、その自由を知的な自由として、人間と社会を考える自由を培いながら育ってきた人だろう。それゆえに、おそらく本質的には国家や共同体の「縛り」に頭を押さえつけられている人ではない。

 もちろん、退任が決まっているからいえる事もあるだろうが、彼の自由な精神から言えば、正直なところ、オバマが生きて育つ時代はもう第二次世界大戦も、太平洋戦争も終った時代だ。
 彼の立ち位置の強さは「かつての戦争」の加害・被害の立場からは少なくとも「物理的には」自由なところにある。では、あと大事なことは、オバマに(限らずだが)どのような人間観、社会観、世界観があるかということだ。その意味では彼は相当ラディカルで、ある意味アメリカという国家のリーダーとしては良い意味で相当過激なことを語っているのだ。そのことに着目すべきだろう。人間社会がどのように生き残り、どのような人たちを犠牲にし、そしていまどのような集団の縛りの中で生きているのか、ということを。

 悲惨な、広島のかつての現実を前に、わたしたちの考えるべきことは人間集団が何をしてきたのか、ということだと思うのだ。
 後段に彼はこのように語っている。人間の限界を考えれば、この後段の言葉を自分の身に沁みこませるよう、努力するしかない。それはオバマ自身に、ぼくら自身に、常に問いかけられる。それが死者たちの魂の語りかけ、訴えに耳を澄ませ続けるということではないだろうか。

 
われわれは過去の過ちを繰り返すよう、遺伝子によって縛られているわけではない。われわれは学ぶことができる。われわれは選択することができる(傍線、ブログ筆者)

 理想を実現することは、自分たちの国境の内においてさえ、自国の市民の間においてさえ、決して簡単ではない。しかし(理想に)忠実であることは、努力する価値がある。追求すべき理想であり、大陸と海をまたぐ理想だ。

 あの演説の日、「政治家は結果がすべてだ」と言い切った解説者がいた。その彼の言い方はつるつると軽やかで、ことばによどみがなく、自分のことばが消費の中ですぐに消えても構わない。否、ことばはそのときに人びとに「そうか」と思わせる程度の洗脳道具にすぎず、自分の顔など忘れて構わない、名前など忘れてくれた方がいい、とでもいいたげに見えた。
 オバマがリーダーを行う国の背負うマイナスの歴史、いまもかわらぬ暴力的な背景を考えれば、オバマの「自国の市民の間でさえ理想の共有は簡単ではない」という言葉の重みについて想像もつかない人は寂しい。

 オバマの大統領職の苦悩というものも、同時に感じた演説であったが、これは冒頭に書いたように人間社会の歴史を実にシンプルに描ききった伝説になるべき演説だと個人的には思ったのだ。
 それは結局、ぼくひとりかもしれない。少数にしかそう思われない引用部分であったかもしれない。
 だが、僕にはこの演説がのちのち何かのテキストに取り上げられるように思えて仕方がない。

 意味ある言葉を発する政治家は本当にいま世界を見渡してもまずいない。それを考えればオバマの言葉はやはり特別で、際立っている。日本の首相などは言葉の重みの意味では全く比較すらできない。日本人としては実に残念で、悲嘆にくれてもいいくらいなものだと思う。


https://youtu.be/BECPsmNbnWc?t=2m54s

0 件のコメント:

コメントを投稿