2016年3月27日日曜日

社会のコミュニケーションにおけるダブル・バインド

 最近知った情報によると、「たけしのTVタックル」でまた「ひきだし屋」を取り上げてひきこもっている人を無理やり外にひきだす放映をしたとか。僕はひきこもり問題が加熱した頃の「長田塾」問題なども知らないし、「まだそんなことをやっているのか」とただ唖然とするだけだけど、自分のことが手一杯だし、「結局、他者の意向に想像力が働かないものは、カルト信者と変わらない」と思っているので、やれやれ狂人が、と思うばかり。
 そこに(元は大ファンだった)たけしのけれん味、浅草芸人的なマチズモと根底にある虚無主義がその種の見世物を煽ることに拍車をかけて躊躇もない、ということかもしれない。たけしの内面というのもいろいろな点で矛盾があるし、鋭利な感性と、同時に他者への鈍感が混在しているところがあるから。まあ、古風な任侠人、やくざくずれというところがあるし、そこがプライドのようになっているしね。

 それ、今回の本題と関係ないのです。いまの社会って「コミュニケーション能力」を高く評価しようとしたがるじゃないですか?このまま言ったら大概のひとがコミュニケーション障害にしてしまいかねないような。でも、誰がそういうことを言い立てたがるのでしょうね?という話。(それこそひきこもって何が問題?になりそう、という話です)。

 最近、近くのショッピングセンターの買い物の清算を何と客(買い物にきた側)がしなければならなくなった。もちろん商品購入のレジ打ち(バーコードでの読み取り)まではしてくれるんだけど、合計額が出たあとは、こちらでお金を清算機械に入れて自分でつり銭を受け取る仕組み。
 ここのスーパーはほかのお店に比べてレジの担当のかたはとてもスピードが速く、気が利いた。土、日の朝市とか、安売りのときにお客が並んでもさばくのが早かった。
 本来、レジ担当の人はお客さんのお財布に手をかけてはいけないのだろうけど、お金の受け渡しが不自由になった母親は目当てのベテラン担当の方のところに行って「いいですから」と言って財布から小銭を出してもらっていた。すると担当の人は該当する小銭だけを指先で受けとめて、レジ代の上において、「これだけいただいてよいですか」と。母は、前面信頼して「はいはい」とうなづくだけ。そういうコミュニケーションが成立していた。ほんの小さな、人と人との。
 ところが、今では合計金額が出たあとは「現金ですか」「はい」「では、左の清算機でお願いします」。その間、レジ員さんは両手を前にして立っている。

理由はきっと二つあるんだと思う。ひとつは(滅多にないだろうけど)お客さんと店員さんの清算のときのトラブル防止。そしてもうひとつ、こっちが大きいと思うのだけど、その日の損金防止。つまり「売り上げと金額が合わない」ことによるバタバタの防止なのだと。
だけど、年寄りには全く親切じゃない。現に戸惑い、怖がる母は、もうスーパーで買い物するのが困難になってしまっている。

 コミュニケーションが社会人に大事だといいながら、スーパーという、もっともドメステック、日常的な場で「買う人」「売る人」の間の会話が急速になくなっている。細かい会話が苦手な僕でも明らかに「これは変じゃないか?」と思うほどなくなっている。こんな一番日常に近い世界で子どもに「コミュニケーション能力」と言ったところで、宙に浮いた会話だけを磨け、といっているようなものではないか。日常から、買い物から、どんどん物理的に会話を奪っているんだもの。全部自己責任でやってください、になっているんだもの。

 僕も最近、イオンモールで「セルフレジ」を利用するようになった。ということはいずれ機械で買い物の清算は自分でやるようになり、スーパーからレジ打ちのプロが消滅するんじゃないかと思う。みんな軽く考えるかもしれないけれど、あの仕事をやっている人のプライドがいま打ち砕かれているんじゃないか、と自分は思えて仕方ない。

 いずれいろんなところがセルフになるだろう。駅員さんが乗車切符を切らなくなり、いつのまにか自動改札が当たり前になった。この様相でセルフガソリンスタンドのように、スーパーで買い物をしても自分で清算までやり遂げるようにさせられるかもしれない。飛行機だっていまバーコードのスキップサービスだしね。どんどんコンピューターが進化すれば生活の隅々まで「自分でできます、便利でいい」となる可能性が高い。そしてちょっとした「目立たないが責任感持つ仕事人」がいなくなる。キオスクの店員さんのように。「自分がさばいている」というプライドを持つ人がいなくなる。

 「これでいいのか?」という疑問がもちろん最初にある。そしてこの流れに逆行できないなら、人はどこで何をする?という問題がいずれ浮上する。介護だっておそらく機械化の流れは止まらない。特殊な能力の人がいればいい、となる可能性は高い。
 本当に時代に逆行できないなら、特別でない、普通の人たちは何を仕事として、何をその仕事のプライドにできるのだろうか。

「カーネーション」というドラマは、伝統的和裁業の父に、新しい「洋服」という「ミシン」という機械で作られる服装に魅入られた主人公が。愛する父との葛藤の間を揺れながら洋服に日本社会が移り変わる中で自分の仕事の世界を作り上げる物語りだった。しかし、その主人公の時代はまだ「ミシンの操作」と「丈の、メジャーで計りきれない感覚理解」「新しい時代のモードを、どう工夫してお金をかけすぎずに創造するか」という「打ち込む仕事」の具体感があった。そこには生き生きとした創造的な仕事に打ち込む躍動感が展開した。だけど、親のあとをついだ娘の時代は「デザイン」と「流通方法」「先駆的なコマーシャリズム」へ変化していく。着てもらう対象も「岸和田にすむおばちゃん」ではなく、「世界のセンスエリート」対象に、職人の「質のありか」が変わっていく。

でも、これからの時代は「質のありか」さえ、どうなるかわからない。そんな時代がやってくる気がする。

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