2013年12月14日土曜日

「秘密」と「謎」(2)

 
 このタイトルで考える話は実は自分の中では一筋縄では行かない。先日も書いたように自分が自分の中に持つ秘密や謎。それは意識と「意識下にあるもの」との問題でもあって、フロイトとか、より歴史的に古くてかつ普遍的な仏教で言う煩悩の問題とつながる。

 その話題に入る前に別角度で寄り道。
 
 現実的に言えば、近現代人として、社会集団のそのときどきの成立の過程について疑問をもつことや、社会について調査や研究をしたいと思う人たちが一定数いる。近現代においては社会の成立、秩序の成り立ちの形は別に人間を超えた超越者である「神」によって生かされているわけではない前提を持っているから、政治的・経済的・社会的な力関係やリーダーたちの関与があることを知りたいと思う人が生まれてくるし、リーダーたちの意図を知る権利もある。言い様を変えれば、それは「知りたい」という、人の良くも悪くも欲望によるものだし、知的な欲求というものだ。

 それはもちろん、別に第二次世界大戦後に生まれた発想じゃなくて、明治政府という近代の国民国家が成立したときからある、一定の人たちの要求だ。むしろ当時の権力エリートの方が、国民国家の方法論を輸入した過程にいたわけで、彼らは実は結構ニヒリズムがあったんじゃないか、という気がする。国民国家、この壮大なる虚構、という感じで。そのニヒリズムが向かう方向が「国家」にベクトルが向いている人は民主主義とは国家が人びとに与える「恩恵」だ、と考えただろう。また、「新たなリアリズム」としての国家像を「国民」への関心に向けた人は、民主主義は国家から人々が解放され、主体的にこちら側から社会を作ろうという「回復的」な権利だと考えたろう。つまり、いまにつながる考えはすでに明治期からあったし、後者の代表の一人としてはジャン・ジャック・ルソーの思想を訳した中江兆民という人がいる。でも、おそらく中江兆民だとて、楽天的な民主主義者だったわけではない。いろいろと諧謔的な思いは「三酔人狂論問答」という彼の本に書かれてる。諧謔か、あるいは高度なバランス感覚だともいえるかもしれない。そして彼の書生をやっていたのが、後に大逆事件に呑み込まれる幸徳秋水だ。大逆事件は、いま話題になっている「共謀罪」を考える際に、もっともネガティブな方向で想像に浮かぶ明治の事件だった。

 人が社会の中で疑問に思うことに迫ろうとすること。つまり生きていく上でどうしても気になってしまうこと、学んでいく過程で考えてしまう方向性。そこにいわゆる「秘密」なり社会の中の「謎」もある。
 多くの人にとって、余計なことは知る必要はない、自分にとってメリットにもならないようなことは知る必要がない、そういうスタンスは別にあっても構わないものだ。でも、逆に知りたがることも別に病気ではないし、危険なことでもないはずのものだ。

 多くの人が自分の関心に従って、自然に関心を持ち、自然科学に没頭したり、コンピューターアプリに関心を持って、その内部構造の解明と新しいアプリ制作に没頭したりすることと、社会的な関心は別の立ち位置にあるわけではない。探究心という意味では同じことにすぎない。
 しかし、結論から言えば、日本が大日本帝国だった頃、昭和の日中戦争~太平洋戦争に至る過程のなかで「社会」ということばは危険視されたのだった。「昆虫の社会」という本を購入したと言って警官に捕縛されたり、軍港のある小高い丘で写生をすれば、「軍事機密」に触れる行為、として警官におとがめされるとか、そういう冗談のようなことが起きたわけだし、いま日本政府が考えていることはそういうことがタチの悪い冗談で済ませないということも考えているのではないか、と疑問に思わざるを得ないことが多い。

 そのようなクダラナイことにも、説得性を与えるものは二つある。ひとつは未来への欲望の餌を意識に植え付けておいてから、それが手に入らないのではないか、という人びとの状況不安に付け入ることである。もう一つは、自分の国の周りにはいよいよ明確な敵がいるんだ、という悪意ある幻想を植え付けることである。どちらも不安意識に根ざす人々の悪い想像力に訴えかければ、過去の風景はいまの風景は違うよ、とはいえなくなるだろう。
 見える風景はいわば化粧のようなもので、裸の心性は今も戦前も同じです、ということだって十分考えられる。

 自分ではない誰か、自分では手に負えないと思われるような大きな状況の何ものか、植えつけられた時代のその観念。それを何度も何度も繰り返す教育やメディア。手段は変わっても、同じことがらへ。欲望とそれに基づく明日への不安に訴えれば、案外客観的に振り返れば笑ってしまうような、そんな冗談のような環境も揃えることができるのではないか、ということなのだ。

PS.
 ところで、テレビでは何でこれだけ?と思うくらい警察主体の犯罪暴きのドラマがあることだろう。人はどれだけ秘密を暴露したいと内心思っていることか。2時間ドラマのサスペンス云々を見てればきっとそれがわかるだろう。別に政治的な思惑を詮索することと、2時間ドラマで犯人探しをしたがることと。その欲望はこちらが高尚で、こちらが程度が低いなんてわけじゃない。同じ心根からある、と見れば普通の人も理解してもらえることのはずなのだ。ただ、そこからつながっていく回路がどこか、ということの違いの問題に過ぎない。まあ、実はその問題が大きいのだともいえるのだろうけれども。。。

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