2013年12月13日金曜日

「秘密」と「謎」(1)

 
 秘密保護法案が通過した。防衛、安保、テロなど国家機密に対して公務員はそれらの「特定秘密」を保護しないと懲役罰が加えられるとか。あるいは秘密を話すように「強要」した民間人も懲役刑になるとか。
 
 「秘密」を保護する、と国家が明言することは国家が秘密を持っていることを明言することだし、国家、つまり”主権・領土・国民”で成り立つ国民国家がその国家の安寧秩序のために秘密を持つのだ、秘密をバラしたものは許さないぞ、という姿勢を国民に示したという点で、この国の政権というものが父親的なこわもてを前面に打ち出したことで画期的だった。日本は「自由」で「民主主義」の国としての建前を持っているけれども、その建前が崩れ落ちた瞬間で、折しも隣の北朝鮮が政治的な要人を体制内権力闘争で事実上死刑にするような独裁制的態度に出たり、中国のような国の国家中心主義的な情勢など、日本も含めて東アジア全体が「自由と民主主義」という建前の限界領域にいま、あるんだろうという気がする。特に、戦後の日本でこういう姿勢が前面に出たのは初めてではないだろうか。これはこの法案に限らずの話であって。・・・ここまでのざっくりとした感想に、いろいろ細かな説明不足を指摘する向きがあるだろうし、その通りのこともあるだろうと思うけれど、それは今回のブログ内容の中心ではないので、そこは捨て置いて欲しい。
 
 僕は「自分自身」という問題の軸として、この「秘密」ということと、「謎」ということに着目したいと思うのだ。
 というのは、「秘密」というのは、「謎」ということととワンセットの気がするからだ。親子関係や大人と子どもの関係に置き換えると、子どもはこの社会の中に「謎」を感じる側であり、神なき世界に生きる、つまり大人が行為し、ルールを創造するこの社会は表の裏に「秘密」があるから、その表の側(建前的な言葉や建前的な行為)に対して「あれ?」と思う子どもの側は、(比喩的な意味も含めて)大人たちで構成されている「社会」や「世間」に「謎」を感じる。つまり、謎を感じるというのは、そこに「秘密」があるからだ。
 
 この話題における結論の一端を述べると、”愛情ある”「秘密」は「謎」と思っていたその子どもの疑いに、「秘密の意味」が了解されたとき、何ともいえない情緒的なドラマが生まれるように思う。その時、つまり「謎」に首をひねっていた子どもはその謎の正体が愛情と結びついているとわかったとき、あるいは自分と同様の人間的な問題とつながっていると了解したとき、深い感慨に結びつくのだろう。その時自分と「秘密」は、自分自身と対等であったということ、あるいは自分を守ってくれるための、愛情を持って隠されていた謎であって、秘密であったという了解であるから、それは何とも言えない感謝の気持ちにつながる。
 何より、一番大きいのは、「謎」だと思っていた「秘密」の意味を了解したとき。そのとき、子どもはもはや精神的に子どもではなくなっている。その滲むような感慨が、人びとにドラマの質、というものも了解させてくれる。

 奥行きの深い「謎」も「秘密」も、最初に「秘密を保護する」法律なるものを前面に押し出してしまったら、もうその社会には、奥行も、豊かさも、膨らみもない。平板で、貧相で、先が細っている社会であり国家だろうと思う。

 自分自身、今も「自分自身の謎、秘密」を追っている。追いかけている。僕が言いたいのは「自分」という存在というのも、なかなか厄介な、言わばもうひとりの自分が自分に対して謎やトラップを仕掛け、かつ秘密を持っている、そういものである、ということ。僕は自分自身に対して、そういう前提に立っているし、それは深層心理学的な問題として、まだ自分で自分自身を探っているということでもある。それを政府、社会、国家がやっていることと、ある程度トレースして、あるいはイコールの問題として、考えたいということなのだ。その具体的な説明は、すでにこの文章が長文になっているので、近々に改めて書きたい。

 もちろん、自分自身に対する謎や秘密と国家が具体的・現実的に脅すような形。すなわち懲役10年の刑を公務員に、あるいは公務員に秘密の暴露を迫るものに与える、という国家のこわもての話とどうつながるのか。不可解、と思う人が多いだろうことはよくわかる。ある程度「自分の秘密」と「国家の秘密」をつなげる比喩は強引なところがあるのも事実だということはわかっている。
 ただ、この「秘密保護」の法律が通った時の何とも言えない憂鬱の意味は、一つは国民より国家が上位に立ったという危険の認識が最大限大きいのだけれども、もう一点には人も国家も自分の秘密に蓋をしたがるのは、そうしたい理由があるからであって、その理由とは、自らの内にある邪な心が正視出来ないからなんだなという、そういう理解ゆえなのだ。

 秘密が「愛情」に基づけば、人を感涙させるカタルシスになるが、逆に自己防衛に基づく秘密は、自分の中にある恐怖心に基づく攻撃性に基づくのだと思わざるを得ないこと。僕が憂鬱になるのは自らの秘密や謎を解く作業はあまりにシンドイんで、途中で放棄しようとする傾きにいつだって舞い戻ってしまう不安と、国家のそれは同様なものがあると感じるゆえである。バックラッシュ(反動)は国だけに起きるわけじゃない。気を付けないと、ひとりの人間のこころの内にも起きる。もちろん、そのようなひとびとの集合体が国家だから、個々の人たちの意識の後退が国の反動を生むという結論も客観的には出せないわけではない。
 
 風呂敷を広げすぎてなかなか大変なことになってしまったけれども、続きもなんとか書きあげたいので、頑張りたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿