2012年9月25日火曜日

芹沢俊介氏講演「いじめ根本解決への提言」質疑応答

 
 芹沢俊介さんの講演、質疑応答の部分です。講演の主部分は大枠を伝えるために「だ、である」体を使いましたが、質疑応答の中に一番芹沢さんの誠実な部分、聞き手に微妙なニュアンスを伝える繊細な丁寧さが見えると思いましたので「です、ます」体に変えています。
 質疑は講演で考えられたものを超えた芹沢さんの一層、考え考えされた部分が表現されているため、出来るだけ忠実に再現してみました。故に多少読みにくさがあるかもしれません。
 ただ、このためらいや、聞き手に伝える思いが結構大切な感じがあります。
 質問を受けている際の芹沢さんの姿勢は本当に真摯で、これが本当のジェントルマンというものかなあと思いました。(記載した二番目の質問は、私がさせていただきました)。
 その後、芹沢さんを囲んで懇親会が用意されていましたが、そちらは参加していませんので。その場でより具体的で実践に即した話があったかもしれません。
 主催のNPOはいじめに関する仲裁(メディエーター)、和解のための話し合いを実践志向しているNPO法人のようです。団体のHPはこちらです。

Q1.「レジュメのいじめ防止策のところに、『一人になれる子どもをどう作るか』という言葉がありました。この点についてもう少し詳しく聴きたいのですが」

 実はここは書こうかどうか迷ったところなんです。書いた理由は、「いじめが終わるとき」という本の末尾にかなり激しい身体的・心理的暴力を受け続けながら、ほとんど報復感情を抱かずに済んだ子どもさんとの出会いについて書いたんです。
 言葉を交わした時に彼がなんと言ったかというと、「お母さんが居るから」と言ったんですね。僕はその言葉を象徴的に受け止めました。それはお母さんのためにとか、お母さんに申し訳ないからということじゃなくて、お母さんがいてくれたから報復感情を抱かずに済んだという風に僕は受け止めたんです。なぜそう受けとったかというと、僕が好きなイギリスの児童精神科医でドナルド・ウイニコットという人がいます。彼の言葉の中に「子どもは誰かと一緒の時に本当にひとりになれる」という至言があります。つまり、一緒の誰かというのは漠然とした誰かではなく、特別な「誰か」なんです。これは子どもにとっての特別な誰かというのは、よほどのことがない限り「お母さん」なんですね。お母さんが一緒にいるときひとりになれる。このお母さんは基本的に絶対的信頼の対象としての母親です。こっから先は僕の養育論になってしまうんですけれども。
 

 要するに絶対の信頼の対象になるためには、それは子どもが本当の危険の時、絶対な対象としていてくれる。ひもじい時に食事を与えてくれる。どこか痛いときにすぐ飛んできてくれる。常にそう言う関わりの中で子どもはお母さんを絶対的信頼の対象にしていきます。
 そしてその絶対的な対象は子どもの中に内在化されます。つまり「信頼」という言葉が内在化される。すると子どもはお母さんが具体的にそこにいてくれなくても、常に絶対という対象と一緒ということを意味するんですね。このように内在化された信頼感があるので、絶対の対象が内在化してさえいれば一人になっても大丈夫。
 ひとりになれるということは右往左往しないということです。つまり群れの動きに動かされず、自分の欲求や主体性を大事にしながら行動することができる。子育て養育の肝はそこにあります。出会った時のその20歳の男性、おそらく彼は絶対的対象を内在化出来ているために報復感情を持たなかったのだと思います。そう理解しました。

 普通、いじめに遭うと多くの場合は報復感情を持つんですよ。僕も持っています。そして僕は対人的に人が怖いですね。つまり傾向としてはひきこもりです。ここでこんな風に喋ってますが、これは役割なものですから。でも根っ子は人が怖いですね。これは傷です。60年前のことを思い出して、まだ「あの野郎」という報復感情を捨てられないですね。ですから、群れの中の安心感と引き換えにやりたくないことをやってでも群れの中で安心したい。このように、いじめが群れから離れる恐怖に由来するのは責められないことです。
 でも、その「責められないこと」自体がいじめのベースになっていると考えていったとき、いじめって本当に厄介だなと思いますね。そういうことをひっくるめてやはりそれを対抗させる力としてひとりになれる力、ひとりになれるベースをどうやって作るか。それは早期の親子関係の中で作られるのか。これは何かテーマになるような気がします。

 でも、まだ自分の中では言い切れないですね。そこへ繋いでいくための対話がまだ不足しているところがあって。でも言い切りたいな、とは思いますけどね。そんなところでいいですか?

Q2. 「現代社会での学校、生産手段としての会社がある限り、いじめの構造はなくならないという風に受け止めました。仮に集団がそうだとすると、それを変えることが出来るのか?ということが一点。あと、いじめられたお子さんが学校をアイデンティテイの拠り所としたり、社会的な居場所と考え、ギリギリまで追い詰められても頑張るんだとの話がありました。同時に私は昨年、芹沢さんのひきこもりに関する講演を聴きまして、その時、ひきこもることについては十全に引きこもるべきと語っていたと思いますけれども、先ほどの学校でいじめられているお子さんについては、学校へこだわっていくことについての情実と言うか、そこへの厚い気持ちがあるように思いました。その辺りはひきこもりの方への角度とは違いがあるように思いまして。その点の違いについて芹沢先生のフォローをいただければ」

 いいところを突いてくれたなと思うのですけれども(笑)。
 どうして子どもが逃げないか。「逃げなよ」というのは割と簡単です。でも本人が「逃げられないよ」「逃げたくないよ」という気持ちもあるんだということ。これは押さえておきたいんですね。なぜならば、学校や職場はいじめはいつでも起きる状況があるけれど、同時に学校や職場は抑止する場を同時に作れると思っているんです。

 職場であれば上司の力で十分にできますし、学校であれば教員が出来ると思います。で、今日お話したのはこの程度の知識を持っていれば、後は子どもへの愛情で何とか出来ると思っているんですね。だから多少の余地、子どもにとって小さくても居場所はあるよ、教室の中に居場所があるよと感じられるものがやはり学校は用意しなければいけないと思いますし、用意できると僕は思っているんですね。そしてそれは難解なことではなくて、子どもへの愛情をベースにしていじめに対するしっかりした知識を持って、いじめに対しては絶対に許されるものではないという姿勢を貫くのであれば、そんなに難しくなく子どもたちが生きられる場所に持っていけると思うものですから。

 
 
 ひきこもりは個的な動機が強くて、いじめの場合はむしろ僕がウエイトを置いたのは、深刻な心理的な傷というところにウエイトを置いて考えてきたものですから、そこに居続けることと心の傷の絡みで考えると心の傷をさらに深めるけれど、なお学校へ行き続ける。間違えれば自分の死を招いてしまうことと、それを存在の深いところで感じていて、でもなお学校へ足を向けてしまう。また居場所のない自分の席に座ってしまう。ある種のどういったらいいのでしょうかねえ....。いじめで追い詰められるか、自分の社会的居場所を失うかみたいなせめぎ合いみたいなものですけれども、その気持ちへの幾ばくかの配慮はしなければならない。

 配慮をした上で、でも「学校へ行くのはやめなよ、行かない方がいいよ」とは言いたいですね。言いたいですけど、でも子どもが「行く」と言った時に僕たちはなにができるか。やはりいじめに対してはっきりと、じゃあいじめに介入するよという態度を教師が取れるかどうかですね。
 今日は親のことは話しませんでしたけれど、親も日々の様子を見ているならば、これは?と思うわけですね。いろんなネガティブな変化が子どもさんに生じますから。そうしたときに親御さんがそこに踏み込めるか。つまり、「休みなよ」「休んでどこかへ行こうよ」というところまで踏み込めるかどうかですね。
 子どもはそれでも抵抗するだろう。でもそこで抵抗することで対話のようなものが親子の間で出てくるならば、それはすごく子どもにとって生きる力になると思います。ですから微妙な発言を確かにしたわけで、前回に来たときの話と今日の話に落差を感じてくださったということで、非常に鋭いご指摘を頂いたと思います。

『見えるいじめと見えないいじめの話があって、囲い込み型のお話とか、もう少し詳しく教えていただけますか?』

 はい。囲い込み型というのはですね。外側からは同一グループに見える。でも内側では四人によってひとりの標的が作られている。これが愛知の大河内君の事件のいじめの構造なんですね。外側からは同一グループに見えるのでわからないんですね。見えないんですね。外からはいじめられていることは見えない。だけど内側では四人によって排除されて分離されている。そしてここにさまざまな暴力や金品の奪取があった。この構造のいじめは結構多いです。これがわかったのは大河内くんがメモを残していたんですね。あいつらにこれだけのものが取られたとか。これで初めてわかったんですね。
 こういうことは、この囲い込み型の構造が知識として持っていれば、子どもの状況で、子どもの変化を見ることで学校や家族が知識として持っていてくれると全然いいですね。いじめの三層構造や四層構造は外側から見えますからよほど不注意でないとわかりますけど、囲い込み型は厄介なので。いじめがどうかを見出すことは、こういう構造があるんだということが知識としてないと見えないですね。それくらい厄介だということです。


 

 
 

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