2012年9月24日月曜日

芹沢俊介氏講演『いじめ根本解決への提言』

 9月22日。NPO法人フレンズネット一周年北海道記念講演で評論家の芹沢俊介氏の講演を聴きました。今回は大津のいじめ自殺事件に端を発した4度目のいじめ社会問題化に即し、昨年のひきこもりに関する講演に続いて、もうひとつの芹沢氏の追求テーマであるいじめについて。今回もかなり原則的な話をされました。貴重だと思うので、長いですが、その話の大枠全体を記載します。
 
 
 まず、芹沢氏は個人的体験として、自分もいじめを受けてきた経験を端緒として話を始められました。

●私自身の経験として、小学校5年、6年の時、いじめを受けた。ともに3週間くらいの短期で済んだけれども。身体的なものではないが、あるときクラスの男子全員に無視された。幸いなことに当時は地域社会に子どもが多く、放課後の世界での遊び友だちがけっこうあって、学校外で地域の仲間が待ってくれていたので救われた。
 1986年、岩手県で鹿川(しかがわ)君という子のいじめ自殺事件があり、その頃から自分はいじめに関心を持った。実はその時まで自分が受けたいじめのことを忘れていた。鹿川君の自殺で自分のいじめを思い起こした。それから僕は本格的にいじめ問題に関心を寄せ始めた。

●いじめを事前に防ぐのはまず困難だ。なぜならいじめが起きるのは同じ顔ぶれが一日同じ場所の一箇所で拘束されるところから起きる。その顔見知りの関係でいじめが起きる。故に、学校や会社でいじめが起きるのは避けられない。図書館のように自主的に自分で選んで来る場所ではいじめは起きない。
 学校、会社が解体されるとき。もしそれが来たらいじめはなくなるかもしれないが、両者が共に機能している限りは、いじめはなくならないだろう。ならばその場所自体にいじめが起きるモメントがあるわけで、だからいじめを事前に防ぐのは困難だと考える。
 そうであるならば、起きたいじめを深刻化させないことのほうが重要だ。どういじめを深刻化させないか。

 
●また、いじめられた子が標的になったことによってのちのち傷を抱えることに心を寄せなければならない。その傷を抱えるというのは、対人関係において必要以上な怖れを抱くことになる。それを抱くことはのちのちひきこもりの要因になりうるし、実際にもある。
 それから、いじめを受けた人、特に身体的ないじめを受けた人はほぼ100%近く「報復感情」を抱く。これはきつい問題を当人、周囲、家族に残す。いじめた当人に報復できればいいが、それが不可能だと報復感情を満たすため、攻撃性を向けやすい家族、例えば弟、妹、母親に攻撃を向けてしまう。あるいは他人に攻撃を向けられなければ自分自身に向ける。それが自殺念慮となる。他者攻撃の反転が自傷行為。
 報復感情の処理の難しさというものをひしひしと感じる。それをどう考えたら良いだろう?と僕は思う。いじめが深刻化する、というのはつまりそういうことだ。

●だからいじめの深刻化は防がなければいけないし、それは可能だと僕は思っている。そのための幾つかの提案をしたい。
 大津のいじめ自殺事件の社会問題化を考えると、これは以前3回、いじめの社会問題化があったと考える。1回目は1986年の鹿川君いじめ自殺事件。2回目は94年の愛知の大河内君のいじめ自殺。3回目が北海道滝川の2005年少女いじめ自殺事件。この時に、自分は今までいじめを考えて本などで書いてきたことが不十分だったと気がつき、もっと徹底的に根本から考えなくては、と懸命に考え直した。今回話すのは05年以降に考えたもの。

●実は今回の報道でも一点、どうしても気になることがある。それは「いじめ」という言葉が実態を欠いたまま飛び交っていることだ。実態を欠くとはどういうことか。それはいじめに関する丁寧な知識を欠いたままいじめという言葉だけが飛び交っているということだ。いろんな人、識者がコメントしているがどうもピンとこない。彼らはいじめの自明性を疑っていない。もし「いじめ」が自明なら、もう30年以上社会問題になっているのに同じことが続かないはずだ。もっとましな対応が出来ているはずではないか。
 僕が多くの人にいじめって何?どういうものをいじめというの?と問うてみても上手く答えてくれない。実態的な答えが返ってこない。それくらいに僕らはいじめという言葉を感情的・情緒的な言葉としてのみ使っている。それではいじめの深刻化・困難化を変えられないではないか。

●まずはいじめの明確な定義が絶対必要だ。定義がなければいじめか、いじめじゃないかの区別ができない。大津の事件もいじめの定義を教師が持てなかったゆえに教師は最初けんかとみていた。定義があいまいなまま、いじめについて勝手な解釈が横行する。それゆえにいじめの定義が大切で、定義を明確にしないと有効な対策を立てられない。

●86年以降、現在まで定義は出揃ってきている。私が定義として過不足なくよくまとまっていると思うのは警察庁少年保安課の定義である。それは二つの条件。この2つを満たせばいじめだという定義である。
 一つはいじめの標的の座に座らされる人が「特定化」されていることである。もう一つはその特定された標的に対して物理的・心理的暴力が「反復継続して」加えられていること。「暴力の反復継続性」。これを抜きにしては、いじめの本質が全くわからない。反復は繰り返すこと。継続はずっと続くこと。いつまで続くのかはわからない。参加メンバーにもわからない。ここがとっても厄介なところだ。
 このような明確な定義が一本化されていないことが、いままでいじめが適切に対処できない結果を生んでしまっている。

●いじめはけして「弱いもの」に特定されるものではない。集団を背景にして個人を孤立させる形が本質的なものだ。だから「反復」と「継続」ということがとっても重要。
 ところで、この警察庁の定義はいじめ参加の側には一言も触れていない。実はこれはとても含蓄のあることで、なぜいじめ参加者に触れていないか。僕が推測するには、いじめに参加する側は、加害者が固定している場合と、流動化している場合があるからだ。
 86年の鹿川君の場合は、いじめ側は朝と昼と、放課後と、いじめ参加メンバーが違っていた。数も多くなったり少なくなったりしている。
 そのあたりも認識して、参加側の明確な定義をしなかったのであろう。

●ところで、いじめの標的に対して心理的物理的な暴力が目的であろうか。苦痛を与えることが主目的だろうか?僕はここから考え直しをしようとしてきた。そしていま、僕はどうも暴力が主目的ではないぞ、とはっきり思っている。
 それはどうしてか。それはなぜ標的が特定化するのか。なぜ反復継続するのかの問いかけがポイントになる。つまりこの問いの最も有力な答えは、いじめという集団暴力に参加している人たちが自分が標的の座に座らされないために行なっている、ということだ。
 いじめは誰が標的になるかはわからない。誰がどういう風にして標的の座に座るのかの答えは導き出せない。だからひとたび定義に沿ういじめが始まった時、自分が標的の座を固定化していく側につくのが一番簡単な方法となる。つまり「標的であり続けてくれ」ということ。標的であり続けてくれれば自分は助かる。つまりは防衛行動なのだ。
 「みんな」の側にいるために「ひとり」を固定化する。いじめが終わらない理由の大きなポイントはここである。

●いじめは子どもたちの鬱積、ストレスが転化したものという見方があるが、僕はそれを取らない。イライラが暴力に転化するなら、それは一過性のもので終わるはず。その形はドメステックバイオレンスに似ている。それはいじめとは質が違う。いじめはもっと人間の弱さというか、僕ら自身の弱さに”根”を持っている。その弱さとは、「ひとりになるのを恐れる」ということ。群れの中にいたい。群れの中にいれば安心だということ。もちろん、これがいじめの原因の全てではないが、いじめ問題の根っ子だとは言える。それは「ひとり」を恐れるがゆえに「ひとり」を犠牲にするということ。自分たちの世界から分離しようとする。
 いじめの要因はそう考えたほうが良い。そう考えるといじめは子どもたちの世界の話ではない。大人の僕らを含めた、人間としての根源的な弱さの話であって、そこまで視野を広げて考える作業が必要ではないか。でないと、自分とは関係のない、自分の外側の問題として排除した形のままで終わってしまう。
 しかし、この弱さは子どもたちの世界にしっかり写されていく。大人の弱さがしっかりと子どもたちに根ざされていく。

●次に、いじめには「見えるいじめ」と「見えないいじめ」がある。いじめの「四層構造」というものがある。中心に被害者があり、その周りにいじめの加害者があり、その外側に煽動者がある。そのまた外側に傍観者がいる。それをいじめの四層構造という。
 これは「見えるいじめ」である。大津事件は「見えるいじめ」だ。ただ、今のところ報道でわからないのはここに煽動者がいたのか、傍観者がいたのか。どうだったのかというのは気になるところだ。鹿川君の事件はこの四層構造が増えたり減ったりしていた。先生も葬式ごっこに参加していた。これで分かるとおり、いじめは犯罪と等価ではない。暴行・恐喝があった場合は犯罪だが、煽動・傍観は犯罪で捉えられない。
 また、無視だけで人を自殺に追い込むことは出来る。クラス中が無視することで自殺した人はけっこういる。これを犯罪として立件できるか。犯罪は「行為」である以上、立件はできない。無視をいじめとしてしっかり認識できても厳罰処分にすることは全然現実的ではない。
 

●もう一つは「見えないいじめ」。見えないいじめに僕が気づいたのは94年の大河内君の事件のとき。大河内君は先生たちにクラスで騒ぐメンバーの一人だと思われていた。誰も彼がいじめの対象だとは思わなかった。でも、仲間の中でいじめがあった。標的・分離され、お金をせびり取られていた。これは外側から全く見えてこない。これが「見えないいじめ」だ。ではどうしたらわかるか。それは「見えないいじめ」という構造があるんだ、ということをしっかり理解し、認識すること。この認識を持っていないと見えない。僕はこの構造を「囲い込み型」と名付けた。この型は結構ある。
 「見えるいじめ」はクラスに関心のある先生であれば分かる。でも「見えないいじめ」は構造を理解していなければわからない。そういう意味では、いじめは巧妙になってきているなと思う。故にこの「囲い込み型」のいじめ自殺はとっても厄介だ。

●誰がいじめの標的になるかは述べた通り、わからない。今までいろいろいじめられやすい人の指摘があるが、実際は誰でもが標的になると考えるのが正しい。だから、いじめは起きるという前提で、傷が深くならないうちに見つけて、上手く調整するのが肝要だ。

●いじめがなぜ標的を自殺に追い込むのか。実はいじめと自殺の因果関係を辿るのは絶望的に不可能だと考えて欲しい。また、そういう視点からいじめと自殺の関連性を問うのは不毛だと思う。それよりも、いじめによって標的にされた子がどういう状況に追い込まれるかしっかり知るということの方が大事だ。これを通してしか、いじめ自殺に追い込まれた子の理解に届かない。
 いじめは標的を「ひとり」にすることだ。これは、もう少し説明のいるところで、ひとりになったら本を読めばいいじゃないか、といったコメントを語った識者がいるが、いじめというのは、そんな簡単な精神状態に置いてくれたりはしない。いじめはひとりなるのだけれど、「独りなんだ」ということを常時知らされるものだ。「お前は独りだぞ、独りだぞ」と。「お前に居場所は無いんだ」ということを常時知らされる。すると授業を聞いていても腰がいつでも浮いていて、授業もまともに聞いていられる状態になれない。家に帰っても同じで、読書なんてとんでもなくて、テレビを見ていても上の空だ。
 僕はこれを「我なしの状況」と呼んでいる。自分がない。
 自分があるというのは、自分の居場所がある、ということ。自分がないと居場所がない。この「我なし状況」に耐えられる人はよほど強い人なので、ほとんど不可能なことだ。「我なし状況」。これはすごい屈辱で、屈辱感でいっぱいなので、「いじめられてないか?」と問うと絶対そんなことはない、と真っ向から否定するほどのものだ。

●いじめはこの「我なし状況」を常時知らしめられるわけで、尽きるところ、この世界にいたくないと思うのも、ものすごく自然な流れだ。大津の男の子は自殺の練習をさせられていたが、自殺の練習をさせられたから自殺したのではない。そんな練習をさせられる屈辱こそが自殺をさせる。
 そこで初めて「自殺といじめ」が関連する。因果関係ではなく、人間の存在の仕方の話である。人間論であり、人間理解の話。これがないままでいじめを考えるのは不可能である。

●最後に、いじめられる子どもはそれだけの屈辱感を与えられながら、どうしてその場を離れられないかを考えたい。なぜ学校に行かないという選択が出来ないか。
 僕が2007年「いじめが終わるとき」という本を書く少し前に杉並区の親たちがいじめのある学校に通わせないという方針を固めた。それはひとつの考え方だと思ったし、新しい事態が起きたなと思った。でも、僕はもう少し子どもに即して考えなければな、と思った。不登校らの子たちから問わず語りに話を聞くうちに、最近そう思うようになった。
 子どもにとって、学校に行くというのはやはり一種の安心感・安定感と結びついている。だから彼らは学校に行く。そこを絶たれてしまうと自分が何者かわからなくなってしまう。だから命を削るまで彼らは行ってしまう。こう考えると、本当に大人が配慮しなくてはいけない。教員が配慮しなければならない。今まで話したことを教員がしっかり理解していけば、そういう対応が出来ないはずはない、と僕は思っている。
 そこまで深くかかわれば、深刻化する前に何とか対処できる。そして教師は子どもたちに対して考えているぞ、弱さの現れの形がいじめだということを教師は考えているぞ、真剣だぞということを示すだけでもいじめの最悪化の抑止力になる。
 いじめは子どもたちのなかで起きる問題だが、同時に僕ら人間の弱さの現れだと自分を見つめることでしか、いじめの相対化はできない。
 でも、大人が自分をみつめれば、いじめの軽減になると私は信じる。

※1時間半超の講演のあと、40分の質疑応答がありましたが、すでに長文になりましたので、その質疑応答部分は後日アップさせていただきます。

 

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