2012年7月20日金曜日

「いじめ」について。

大津市で自殺した中学2年生の自殺の原因が「いじめ」によるものだ、ということで事件発覚以来、日々この件についてマスコミも、僕が利用するSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)も、日々この話題で絶えない。  

何よりも、今回の事件はいじめ被害があったという被害者側の両親が警察に告発したこと、それを警察が受理しなかったことから始まり、教育委員会の見解、そして今では民事訴訟、刑事告発と、今までの日本社会にはなかった「学校の外」、すなわちダイレクトに社会の側に訴えを起こして事件の全容解明を求めた点が新しい。  
また、加害者といわれる3人の子どもたちとその親たちも「いじめはない」という形で徹底的に争う構えを見せている以上「いじめ」があったかなかったかの当否についても全面的に争われる。この様相が今までにない展開だと言えよう。  
結論をまず先に言ってしまうと、僕の立場はここまで来たら裁判や取り調べで徹底的に調査すべき。そして黒白をつける以上、関係者以外・当事者以外はその方向性だと理解した以上はもはや野次馬とならずに静観して裁判の行方を見守るべき、という立場だ。  

こういう風な立場に立つ自分の観点そのものを振り返ると、ずいぶん自分の中でも変わってしまったものだな、と。自分の中に深い感慨が、ある。  
この間、ほとんどテレビに触れる機会がそうないからあまり多言は言えないが、マスコミに関してはおおむねいじめ加害をセンセーショナルに伝える立場、それに対してSNSの議論の中の多くは学校という制度の仕組みを考えようという意見が多かったように思う。後者の立場の多くはいじめはなくならない。過去から現在において大人の説教説諭でいじめはなくなったりしない。そもそも人間も動物であり、まだ衝動性と罪悪感の葛藤で「自分」が苦しむには至らない、同時に(性的な部分を含め)衝動性が大きく突き上げてくる思春期時期にはなおさらいじめを道徳的な建前から頭ごなしに叱っても意味をなさない、という「建前」幻想を捨てて人間の「本性」の側に立つ。  
だから、多くはいじめのターゲットにされた子たちがいじめから逃げられるシステムを作るべきという考えを持っていると思う。そこから導かれる回答はクラス制度の見直し、体育の団体競技を選択制にする、授業の単位制など。つまり、1クラス35名なら35名、幕の内弁当のように一つの場所に6時間押し込められるから、その集団の抑圧が誰か特定の者に向かうことを回避するという方法だといえよう。抑圧が攻撃に向かう特定の対象は、当然加害者が反撃を加えられる可能性がない子、加害者と傍観者にとっての「いじめられっ子」という子になってしまう。

僕もおおむね後者の側に立つ者だ。僕自身の経験においても、家の中でいじめられた程ではないけど、学校内いじめにもかなり傷ついてはきた。思春期は特に一層、そのようなことに敏感になるものだし、そのような時期に限って集団生活を強いられるというのはどこかで人間に傷を背負わせてしまうものだ。当時はフリースクールなんてものもなかったし。  
だから学校の制度的なアプローチとしては、(今は知らないが)例えば「班分け」、修学旅行の「自由班」などもなんとかしてもらいたいものだ。 集団に馴れることを求めつつ、どこかで担任教師も孤立する子を把握しているはずだろう。 

実は僕はいじめに対しては、少し昔はもっと過剰反応をしてた筈だ。特にもう何十年前になるだろう?いじめ自殺をした子に対してなされたいじめとして、クラス全員でいじめられていた子の弔意文の色紙を廻して、それに先生も加わっていた、ということがあった。  
とにかく僕は家の中で独り激しくそのいじめが行われた学校、クラスを憎悪し、怒り、呪ったものだった。人というのはかくも残酷か?死んだ命はかくも程度の低い連中の犠牲になったのか?これが平和憲法を持つ平和な国、日本で起こることなのか?と。  
でも同時に分かってもいたのだ。中学時代にさんざん聞いた「平和」「民主的な議論」「先生になんでも話して」。そんな素敵な言葉は授業が終われば露と消える。休み時間、特に昼休みになれば教室は暴力そのものと、暴力的な匂い、いじめ対象に向かう動物的な衝動に満ち満ちていたのだから。  
ここまで思いつつも、僕はいまそのように思春期の、あるいは思春期前期の子どもらの加虐性を責めて責めつづけても仕様がないんじゃないかな?と思う。それでいじめが止まるのなら、僕等が子供の時から止まっている。やはり現実に即した制度の改変をしたほうがいいのではないかと思う。故に大人の説教よりもクラスの流動性を高める方が意味があるだろう。  
場合によればクラスから逃げる、学校を逃げる、別の学習のスタイルを見つけるという方法が現実の今の世の中では最も効果的だろう。  

しかし同時に、それを受け入れる世の中の体制はあるのだろうか?という疑いは捨てられない。学校の外の社会や大人社会がそれを「学校のドロップアウト」として見る勢力が大半ならば、フリースクールに移行しても子供自身の内面に傷が残るままだ。それは端的に「逃げた」という負い目になって残る。学校から逃げた、あのクラスから逃げた、あの連中から逃げた、あの連中に道で出会ったらどうしよう。怖い、とか。いじめ被害の子に「精神的な強さ」を求めるのはほとんど二次被害でもある。「もっと強くなれ」「奴らを見返してみろ」。こんな言葉、ちゃんと死語になっていれば、おそらく少年の自殺なんて起きない。(今回の大津事件を言っているわけではありません)。

僕は猜疑心が強い人間なので、制度をいじくることで人びとの本能、その本能の裏返しとしての精神論がそうそう消えるとは思えないのだ。  
ある種の人は、人間も動物なので、強いものが弱いものを叩くのは仕方ない、だからいじめられる側は強くなれ、と暴論を含みながらある面では人間の本性に気づいている者もいる。しかし彼らが見落としているのは、いじめられる側は「個」対「多」という決定的な不平等にあるということだ。いじめが固定化すると、いじめる加害者のみならず、一番層として多い「傍観者」が強いものの側に立つ、というリアルな現実を敢えて見ないのか、わからないほどに無知だ。  

いじめをモラリズム的になくすには、日常の中に「非日常」が頻繁に現出していくしかない。  
部下が上司のモラル違反を正す。それを同僚たちが賞賛する。生徒が教師の不備を正す。それを他の生徒や先生たちが賞賛する。マスコミが不正を暴き、それを不正者は認め、人々はそのマスコミを賞賛する。クラスでいじめがあれば、「1対1でやれ。俺たちがそれを見ている。言い分を言え」という。それをクラスが当たり前の前提とする。また、クラスにいじめがあると「そんな恥ずかしいことはやめろ」という者が出る。普通にその者が他の生徒に賞賛される。
ーこれらはどれもこれも、ありえない。少なくとも今の日本社会でほとんど見ることはかなわない。残念ながらこれが現実なのだ。  

しかし、「現実なのだ」で終わるのも本当にいいのだろうか?  
例えば、ある意味ではこういう「非現実」はどうだろう?いじめられる側の子に抵抗権、対抗権を与える。一対多、体力でも当然かなわないなら、バットでもなんでも与えていじめる連中をバットで殴り返す。ただし頭部は不可。
これを認めたら、てきめんその子に対するいじめはなくなるだろう。  しかし、残念ながらいじめられる子はそんなことを大概しない。そういう「目には目、歯には歯」ができない子達がいじめの犠牲になる。だって、やり返されない見通しがあるから、いじめが成り立つわけだから。やる連中も、当然、人を見ているわけだ。  
暴力に暴力で対抗しても意味はない。その意味で、いじめの被害に遭っている子は本質的に平和主義者だし、倫理をわきまえた人間の常識を備えたちゃんとした子だ。  
そんな子達に一層の倫理を求めてどうするのだ?この世の中は実に不思議なもので、いじめ被害に遭うような倫理的な人たちが、より一層倫理を深めて、倫理が必要な子たちにこそ読まれるべき、あるいは語られるべき倫理が彼らに忌避されている。こうして社会は何とか成立している。  
ーこれもまた現実だ。  

僕はここまできたら一層、失われた非現実を呼び戻したらどうか?と思う。僕が思うのは「報われない魂」が化けて出るという話の復活なのだ。いじめで殺された子、ハードワークに殺された人。それら、報われぬ魂たちが成仏できずにその地にとどまり、地縛霊のように祟りを求めて彷徨う。鎮魂を求めるのは人びとがその魂の悲しみを理解し、怯れ、人間の愚行を心から謝り、これからの繰り返しを二度と犯さぬ誓いを立てる。  
このような前近代的で非日常的な精神の働きを取り戻すしかないのではないか。そして、その精神を培うには子供時代から親から子へ、老人からその子、孫へと語り継ぐ心ばえしかない。  
その意味ではトラウマになる可能性もあるが、「地獄絵図」による天国・地獄の教えもあながち笑って済ますことも出来ない。
最近、そんなことを思う。  

人はこんな文章を読んで「ちょっとどこかおかしいんじゃないか?」と思うだろうことは理解しています。  
しかし、けして、ふざけてこんなことを書いているつもりではありません。

いずれにせよ、大津の事件に関しては、両者の言い分が決定的に対立し、和解の路線という今までのありがちだったものと違う局面に入った以上、粛々と事実関係を明確化していくべきでしょう。  その過程で多くの人が傷つくでしょう。もちろん被害と容疑(加害者側は加害者性を争うから加害者と現段階では言えない)の両者は勿論、その家族、あるいはクラスの子どもたちや担任、教頭・校長(証言台に立つ場面もあるでしょう)それら現場の人たちとその家族。みんな傷つくでしょう。そういうとこまで想像すると、この事件の明瞭化は社会全体がある傷を得た。その傷は亡くなられた少年の鎮魂の過程でもある。  

その意味で、亡くなられた御魂を慰めるための、これは大きな大きな道すじなんだろうと思います。
実にやるせない話ですが、これは僕らの贖罪のストーリーでもあるのでしょう。。。

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