2011年1月7日金曜日

「ひきこもり系」の自意識

いや~。この2日、特に今日の天気はワイルドです。お元気ですか~?かなりの寒さ+強風+雪のトリプルパンチが出揃ったのは相当久しぶりです。ここ何年かぶりではないでしょうか?この寒さと吹雪の合わせ技は。

さて、基金訓練も残すところ一月ありません。自分の懸念はエクセル二級ですが、今日からパワーポイントのグループ・プレゼンのための話し合い+作成が始まりました。プレゼンは一人ひとりやった方が自由度も高いしバリエーションがあって面白いだろうに、とも思うのですが、協同でテーマを決めてプレゼンテーションまで行うという事自体に意味がある、という考えからでしょう。
自分のグループはひとりめでたく就職が決まって、人員が一人欠けまして、他のグループよりも平均二名が足りず、おまけに本日同一グループの人が一人休みましたので、今日は3名だけ。他のグループは6名でやっているのが多いせいもあるためか、他のグループはみんな元気なんだよな~。コミュニケーションが絶えない。

基本的に今の訓練校はみんな元気だと思います。というか、腹くれのない、真っ直ぐな人が多いですね。しみじみそう思います。中年の方が中心なので、社会体験を重ねた人が多い中にあって捻じれた感じの人がいないということ、少なくともそのような風情を見せない人がほとんどだ、というのはなかなか素晴らしいことです。

その中で唯一捻じれた人間がここに独り。。。ということもまぁ。別にないんですけれども(笑)。
ひきこもり系と精神的な健康は関連性があるといえば、あるともいえ、特別無いじゃん、といえばそうですね、とも言える。客観的に自分を見ればそんな感じかな。(ここでもボーダーラインだw)
ちょっと反応が遅いとか、コミュニケが慇懃だとか、なんとなく鎧をまとった感じがするね、という事は気づかれてるんじゃないかとは思いますけどね。

対人緊張などの神経症圏に属するひきこもり系の自分を含めたグループはいわば、「自意識過剰」な人びと。あえてあっさり言うなら中核はそこにあるんじゃないでしょうか。古風な日本人的な神経質で、森田療法で云うところの「森田神経質」という定義がおそらく一番しっくりくる。

だから、森田療法的なもの。不安や自意識過剰はそのままに、やるべき事をやる。恐怖突入。現実重視。極めて日本的な納得感がこの年齢になると分かる感じなんだけど、逆に個人主義化した社会となり森田が想定していた社会じゃすでに無くなっているんじゃないか?ということは強く感ずるんですね。
 おそらく森田が生きた時代からバブル期くらいまでは社会での働きの意味も、社会集団のありようも森田療法的なものがフイットできたと思うんですが、いまのコミュニケーション中心・第三次産業中心の職業選択余地がない社会になってくると、「日本的な文化」を基盤とした「森田神経質」改善も当事者にとっても納得感が弱いし、世の中も森田神経質を受け入れる余地や共同体的な場面が薄くなっている気は確実にしますよ。

あるいは認知療法。これはいいと思う。僕は長く精神分析療法を受けていますが、もはや自分をとことん見詰めてナントカ、って感じじゃありません。先生と会っても世の中とか社会の話ばっかり。ただ、いまや精神療法に特定の療法の基盤があって純粋にそれを中心に行っている治療などないんじゃないでしょうか。いろいろな治療の良い部分を折衷的にやっているはずです。ですから、僕も森田療法的なアドバイスも受けますし、時には認知療法的な認識の誤りについての指摘もあります。折衷なんですよね。

そもそも、この年齢になるといい加減に自分を見詰める作業も倦とましいものなんだ(苦笑)。疲れるわけですね。そう、精神も疲れます。というよりも、「考える作業」に疲れるんですね。あるいは、この年齢にしてやっと、自分を見詰めたところで、何かを発見する才能はなかったんだ!「ユリイカ!」という哀しい気付きがあったということであろうかと(涙)。

しかし、「自意識過剰」は神経症圏ひきこもりにとってキーワードだとして重要だと僕は思います。故に参考は作家でいえば、芥川龍之介や太宰治。そして橋本治とか(ここら辺は『M系』の神経症にね)。あるいは歌い手の好みとしては初期の吉田拓郎の歌の歌詞世界に近いもの。そこらあたりが理解の参考になるかも。(というか、もろ自分を基準にしてますけれどもw)。

あえて開き直っていえば、非常に古風な日本男性にありがちな性癖で、それが現代に存在すればどうか?という想像力のモデルケースになるかもしれません。この種の自意識過剰なモラリスト連はなぜ生きづらくなったか、女性に見向きされなくなったかを考えた時、現代日本社会の変遷を理解できるかもしれません。(こりゃまた、大きく出たぞ)。

認知療法的な角度から言えば、感情を認知で変えていくことが出来るか?という難問があります。ただ、確かに修正された認知が少なくとも嫌な感情を後々まで引きずらないという効果は自分にあったとは思います。それも、いたずらに馬齢を重ねたうえでの話ですね。少なくとも自分には時間がかかった。それでも同時に、最終的に理性で感情を抑えられるかは分からない、と自分は思っています。
もうあからさまにいうならば、上半身で考えることと、下半身で考えることのアンバランスが神経症圏の一番の葛藤であり、悩みですからねぇ。と、アッサリ僕は思うんです、間違っているかもしれませんけど。。。

ひきこもりは繰り返しますが、『状態像』ですので、いろんな形の原因があってひきこもりという現象がある、というのは基盤としなければならない。ですから、最近発見された発達障害系の人たちの抱える問題はまた別にあるだろうと思います。キャラクターの違いといいますか。。。

今回は自分自身の問題を一歩退いて考えてみました。
やはり、訓練校でも一番捻じれてるのではないかと(苦笑)。

ひきこもりの人の難しさ、困難は他者も当事者も、その状態が何故招聘したのだろうか?ということを上手く説明出来ないままでいることだと思います。それが誰にとってもひきこもりを分かりにくいものに(おそらく)している筈。
ベストは当事者が説明するのが一番説得力があるわけですが、当事者は社会が作ったある種の慣習的なルールのために上手く説明出来ない。あるいは、いまでも厳しい視線があると思っていて、説明する構造を持てない。
でも、意外とその当の社会は当事者が持つモラリズムよりも遥かに雑多な、自由と混沌に身を置いているのかもしれない。。。

可視化されたいと思いつつ、可視化されるのを恐れる。いわばスネオ君に近いのかもしれません。(少なくとも僕は自分自身はスネオくんだなぁと思っています。過剰な”照れ”は誰にとってもメリットがないんだよね。若い時は照れること自体が美学的に思えるのだけれども)。

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