2010年12月6日月曜日

この土日。

 この土日は自分自身の主体的な問題について語る場も含めて、青少年の成長を助けるグループのシンポジウムやミーティングに参加しました。

 土曜日は川崎で不登校のフリースペースを作り、その支援活動も長い「NPO法人 フリースペース たまりば」の西野博之さん、釧路のNPO「地域ネットワークサロン」を代表し、現在は北大で助手として研究活動をしながら札幌市のスクールカウンセラーも行っている日置真世さん、札幌の訪問型フリースクールを運営する山田大樹さんらが登壇し、西野さんの基調講演を第一部として、第二部はお三方によるシンポジウム。

 タイトルは「居場所のちから」。
 前にブログに書いたとおり、30年前に思春期前後からの子ども支援の活動があったか?といえばほぼ皆無だったわけですから、80年代から活動しているという西野さんのような方は特例な感じで、その意味では会場の大盛況ぶりからしても大人の側に「子ども支援」「青少年支援」の機運が高いということは、当時以降から考えれば隔世の感があると同時に、率直に良い時代になったな、と思います。

 同時にそれでもなお、あくまで一般論ですが、子どもにとって幸せな世の中に雰囲気として感じられないのは何故なのでしょう?自分だけがそう思うだけなのか?と自問自答してしまいます。
 その一つは西野さんが例示した子どもに対する過剰な注意(あくまで僕の世代から見ての話ですが)が蔓延していることかな?という気がしないではない。それは思うことです。
 時代の先端を行くネットや携帯などが悪い方向に使われていることも一つの要因かもしれません。携帯イジメがあるのは注意圧力に抗う、大人が見えない場所での子どもの本音の発露でしょう。それでもイジメをされたほうはたまったものではない。それは強調しなければいけませんが。

 しかし、突然自分の思春期に引き寄せると、当時は逆に「構っちゃくれない」のが普通の子ども世界ではあったわけで。ギャングエイジ終焉の末端に属する自分などは生きにくかったのは確か。70年代の中盤から後半というのは大人も子どももある意味おんなじ方向を向きながら、表向き対抗し、裏では無意識のうちに価値観を共有して背中で握手しているという。まるで自民党VS社会党のような(苦笑)大人と子どもの関係であったわけです。(乱暴なくくりかな)。
 あの時代に現代的な感性を持っちゃった当時の青少年のその後の育ち方ってのはどうなのかな?と思いますね。
 まぁ人間、適応出来れば出来る面もあるでしょうから、こだわらなければ適応できてるのかもしれませんけれども。

 居場所問題に関しては、そう簡単でもないよ、ということを含めて僕はマンガ、『家栽の人』13~15巻の連続モノでよく考えを巡らしていることでした。一つは子どもたちが自主的に自分たちだけで自分たちのことを拙くても語り合う場の存在、それが森林公園や沼地などのまちに隣接する自然の隠れ場、あるいは北海道には少ないですけれど、神社の境内の中とかね。そういう自生的な関係が生まれる場所などがあればいいのですが、それをまた大人が用意するというのも変な話でね。GPS付き携帯でも持たされた暁には夢幻の話。

 後は、いかに大人たちが「いい加減な大人」を許容できるか、ということでしょうか。それは何か具体的に見えやすい例えばアルコール、ギャンブル等の依存や、働かない人だけど全然平気でいる人とかだけでなく、「表向きでは立派なことをいいつつ、インフォーマルな場では平気で他人の悪口をいう」ような大人たち。それを見てしまった子どもたちに「いや、人間にはそういうところがあるんだぜ」と説明できるちからも含まれる気がします。大人でもその「フォーマル」と「インフォーマル」の二面性に関しては許せないとどこかで思っているからね。そこを「いや、本質的には本気の悪口ではないんだ」とか、「悪口含めて許容してるんだ」あるいは「ちょっとした悪口でも言わないと、立派な人間も身体が持たねえんだ」てところまで子どもに説明できるかとなると、相当難しいこと。

 ある意味では僕のような人間の問題でもあります。そういうラインに納得いかない自分がいるので。小さな声でいわせてもらえば、人生に絶望してしまう人の中にはそのような二面性の中にある、深い部分の「それでもねぇ~」という部分にどうしてもスッキリ出来なかったという人がいるかもしれない。もっといえば、そのような人はかなり多い気がする。

 ましてNPO的なるもの、福祉や教育的なるNPOの運営者はやはり社会的なミッションとか変革、理想というのがあるわけで、あえていやな言い方をすると、ヒューマニズムとしての理想を語らねばならない。でも、現実の実存在としての自分がいて、その自分が許容できる人間同士の関係性ということもあるから、「人間的な、あまりに人間的な」インフォーマルな話も、心許せる関係性の中ではあるだろう、と。
 つまり「弱さ」と「不完全さ」も子どもに見せられる、あるいは語り合える関係、ということですかね。

 私は一昨日の西野さんの話の中に故・河合隼雄さんの考え方に近いものを感じながら聞いていました。そして存在の全肯定の問題こそ、人間として理念として最も正しく、同時に知恵の実を食べた人間における最も難しい課題なのだ、と思いました。人間の永遠の課題であり、日本国憲法のような「総論賛成、各論反対」の世界。いや違うな。「総論賛成、各論難しいっす!」。

 ですから、これはおそらく「体感」に最も近く、例えば西野さんが自分の奥さんの自然分娩に立ち会った際、自分で子どものへその緒を切った、という話に象徴されるように、「ああ、母体の羊水に守られた子どもが、この外界でついに母子分離を果たして知恵の実を食べた人間として生きていくんだな」という実感が生まれたのではないかと。会場でその話を聞いていて一瞬思ったんですよね。
 ですから、西野さんのその前後の話を聞いていれば、存在の全面的肯定みたいなのは体感としてあるのだろうなと思うわけで、それは普通の人間以上に確固として強いものはあると思う。だから信頼は出来るなと思いました。

 前段が余りに長くなりました。昨日の帯広@SANGOの会はこちらも主にコーディネートしてくれた方は帯広の不登校の親の会の方々で、出張例会の流れをセッテングしてくれた状態で迎えてくれ、誠に感謝、という状況でした。若い方々も私たちよりも多いくらい参加してくれましたが、どの方もひきこもりの当事者というよりも「元」当事者の人たちで、今は過去、という感じで元気に働いている人たちであり、少なくとも自分としては私たちのほうが親の会の方々の発言を含め、「学ばせてもらった」。「若く、早い段階でここまでいろんなことに気づいてくれて、そしてそのことについて話をしてくれてありがとう」という感じです。

 高校の先生で教え子のことが気になってわざわざ新聞の告知を読んできてくれた方もいました。忙しい身分の中でも教え子を気にかけてわざわざ普通の人がひょっこり来ないような場に来る、そんな情がある先生がいる。それだけでも何かホッとさせられる。嬉しいことだと思います。気にかけてくれる人が居ることが悩む当人にとってどれだけ救いになることでしょう。たとえ今はそのことに気づけなくとも。そしてそれに対して一生懸命応えようとする帯広の人たち。本当に良い場の風景でした。

 こちらについては項を改めましょう。またも頭の整理がつかないままで書き始めたため、話の半分だけでここまで来てしまいましたので。

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