2010年10月25日月曜日

湯浅誠さん×中島岳志さん ディスカッション

 今週は北大で「サステナビリティ・ウィーク2010」という文化イベント週間でして、午前中は例の北大初のノーベル賞受賞者、鈴木さんも登場したようです。
 私の目的は勿論、上記タイトルのもの。このイベント全体がそうなのですが、夜間開催のものがなく、湯浅さんと中島さんのディスカッションも午後4時15分から6時15分までと普通の勤め人には参加が辛い時間帯。

 私は職業訓練が終わって自転車ダッシュで15分遅れくらいで入場。内容は基本的に中島さんが湯浅さんに昨年からの経緯をずっとお聞きする、というかたちで進み、いつもは饒舌な中島さんは珍しく聞き役に徹していました。

 湯浅さんの話は基本的には5月にグランドホテルで行われた「岩盤を穿つ」講演と似た内容で、格別新しい話があったわけではありません。

 しかし、部分部分でインテリジェンスのある湯浅氏のアドリブ的に出てくる発言がなかなか頷けるところが多かったのでした。

 例えば時代のキーワードとなった「無縁」。これを湯浅氏は日本の中世史学者・故網野義彦氏の議論を使って、中世の地縁・血縁とは違う無縁の人びと、すなわち土地に縛られず、放浪をしながらもその土地土地でマレビトとして生活する人びとやそのような人びとの集まるもう一つの「空間」と「場」を肯定的に受け止め、「無縁」の空間にポジティヴな要素、「居場所」としての「無縁」という観点を取り込んでいました。

 その無縁=「溜め」の場であり、「居場所」となるのが例えばNPOや自助的組織、というイメージを抱いているようです。いわば、土地に縛られた空間のみに生きた中世の人々に比べると広い世間を見てきた無縁の人びと、という逆転した歴史学から学んで「無縁」を逆転させる発想で、無縁という言葉に暗いイメージを持ちがちだった自分のような人間にはそういう見方もあったのか、と感心させられるものでした。

 対して、中島北大准教授はあえて挑発的というか、刺激的に幾つか議論を湯浅氏に振っていました。例えば3年(?)ほど前の赤城智弘氏の「希望は戦争」論文について。
 希望を持てない社会では戦争で格差がガラガラポンされる状態こそを待ちわびる。何らプライドを持てない非正規バイトの自分には戦争で靖国に祭られることのほうが希望だ、という話。個人的にはありがちな議論だと思っているし、赤城さんという人がいま現在も当時と同じ心情を抱えているのかどうか解らないので、「論壇を大騒ぎさせた」というほど中島さんが過剰評価することかな?と正直思うし、ある面ではその文脈における「秋葉原事件」もそう。
 
 ショッキングな事件や刺激的な議論が若者から論壇に現れたとしてもそれは突出した事例だと思うし、湯浅氏がデータで示したように他殺に関しては戦後一貫して減少の一途をたどっているのに対し、自殺のほうは3万以上で高止まりしていることのほうがショッキングな事実でしょう。他殺も自殺も向かう方向性が逆なだけで動機は同じともいえるかもしれない。しかし他殺が他者に向いた激しいエモーションだとすれば、そのエモーションのはけ口が内に向かう回路しかない、としたらそれは新しい悲劇じゃないかと思います。その意味では社会の閉塞感が高まっているのは確かでしょう。
 だからこそ東京都知事や大阪府知事のように論理よりも情緒に激しく訴えるタイプの首長が喝采を浴びるという倒錯した事態があるのはわかります。

 実は私は赤木氏の「希望は戦争」議論や秋葉原事件以上にこの閉塞した社会ではじわじわと今後大きな社会的力を持つ勢力が現れるのではないかと思っています。それは何か。それは「宗教」です。僕が思うところでは、そちらのほうがより現実性が高いと思われる。

 宗教はポジティブな意味での無縁から始まるNPOや自助組織などの新たなる共助の関係性より、より強力で即効性を持った人間関係の紐帯を作り得るものだと思います。そして教祖を中心として、教団の他のメンバーとの連帯もより強く築きやすい。オウムのような過激宗教が発展するかどうかまではわかりませんが、この閉塞社会が終わりなく続き、物質的条件とか社会的構造の変化による意識の変化がこの社会の課題を招いている、という風にはとても考える余裕も持てない層が、自分たちにとって一番掬い取ってもらいたいかたちが何かといえば、僕には今のところ宗教がもっとも解りやすい形だと思いますし、宗教の再隆盛にいたる可能性はあるんじゃないか?と密かに感じています。そんな時代が来るというのは僕には最も嫌な時代で、当たって欲しくない想像ですが。。。

 そのような時代がやってきたその果てに、情緒で人びとをアジテートする独裁的人物が登場するのではないか。その独裁者に宗教指導者たちがお墨付きを与える-というのが僕が考える「悪い形での無縁」によるバラバラな個の集まりに耐えられなくなった人びとの辿る悪い結果の道です。そして僕が考える一番最悪のシナリオはその流れです。

 最後は自分の想像が飛躍してしまいましたが(^_^;)、例えば世代間の意識ギャップについても具体的に湯浅氏は自分の親世代が生きた時代と自分がいま生きる時代との物質的条件の時代から来る意識の断層にも言及されて、ここは彼のバランス感覚が躍如するところですが、両方の世代がその「生きてきた(いる)」条件の違いにお互いが意識的であることが大事です、と語ります。そう、お互いが自分の辿ってきた(いる)社会的な道筋を意識すること。そこから共通の土俵で議論できる可能性が生まれるでしょう。
 逆にある種の精神主義、たとえば「ガンバリズム」は結果の困難を結局「ガンバリ」でしか説明できなくなってしまう、とも。

 まさに今の時代こそあえていうなら「社会科学」的な思考が必要とされる時代はないのではないでしょうか。また、社会や生活における正確なデーターがこれほど必要な時代もない、と思います。
 その意味で湯浅氏がツイッターでこのところずっと「学んだこと」として各種の社会的データーをツイートすることの意味が深いところで理解できる。
 そんな気がしました。

 長くて解りにくい文章になってしまいましたね。どうもすみません!

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