2010年3月23日火曜日

今日は「埋葬を考える会」

タイトルが「ん?」って感じかもしれませんが。本日のNPO事例研究会は「埋葬を考える市民の会」。
おじさん自身にとっての喫緊の問題ではありませんが、やはり最期のセレモニー、あるいは「死」を遠くないものと考えるはじめたキッカケは同居している両親の老いを目の当たりにしているからです。その絡みで明日は「ホスピスケア」のNPOの話も伺う予定ですが。

簡単に、乱暴にいうならば「充実した生」を送りきった人にとっては最期のセレモニー、お葬式というのは「立派にせねば」とか「多くの人に看取られて」などという意識は実際そんなにないんじゃないかな、ということを今日の話を聞きながら思い深めていました。

大げさに云えば生と死は表裏一体で、おじさんが子どもの頃に想像していた「偉大な人は多くの人に悲しまれて盛大なお葬式をあげるもの」という通念は「偉大な人」にとっては実はそれほど関係ないことではないかと。偉大な人というか、生が充実している人というのは自分が死んだ直後にどのようなセレモニーで送られるか、そんなことはたいした関心事ではないのではないか?と。
さまざまな簡素なセレモニーの形式のスライドを見たり、埋葬のさまざまな形式(散骨、合同墓地、樹木葬、あるいは残された家族の手元に置かれるなど)を教えてもらう内にそう思い始めていました。おじさんの若いときは、といっても最近までですけども。なんとも幼稚な想像力を駆使していたもんだと思い始めています。全ての人が往く道でその意味では全く万人平等の世界なのにね。命の終わりにまで現実の価値観を当てはめていたわけです。

厳密に死後の扱いについて法律に明記されているのは「死亡届を提出すること」と「火葬は24時間以内に行ってはならない」の二点のみ。
それ以外に関してはセレモニーのあり方、埋葬のあり方、墳墓のあり方は自由なんですよね、原則的に。で、現代ではそのような自由な形式を選ぶ人も徐々に増えているということ。

まだ現代の普通の人は長い仏教的な慣習(あるいは先祖崇拝的な慣習)にしたがって、ちゃんとしたお葬式をせねば、お墓も大事だ。人様の葬祭に出るように自分自身も、って思っているかもしれないけれど、死後のセレモニーとか自分のお骨のゆくえにこだわって食べるのも我慢してお金を残す、っていうのは確かに自分には違うかも?って思う。これはまさに個々人の「哲学的な問題」になってしまいますけど、おじさんは自分の死後は自分の存在が終わっているのでそれきり、とおもっているひとなので葬式にこだわりはないのです。というか、基本セレモニー嫌いなので、なくて構わない。骨は散骨を、と思っていましたが、維持が難しいといわれる樹木葬はかなり「これ、いいな!」と思いましたね。

話はそれてしまいましたが、まさに自分の生きてきた生のラストをかざる「死」はその生きている人間の「生の哲学」の問題なんだな、と思いをまた新たにしましたね。極端な話、生が輝いている人であれば、死が不慮の事故で襲ってきたとしても、それはその人自身にとっては格別無念ということではないのかもしれない。その人を慕う人々にとっての無念ではあっても。それが喩え金も名誉も地位もなく、平岸の合同墓地で1900円で埋葬されても、それが何だというのか、ということでしょうね。そんなことを思いはじめている自分に少し驚いていました(笑)。

もともとは4年半前に父がガンになり石狩管内の墓地探しをしたり、同じく父が一昨年の秋に心筋梗塞で一事「危ない」ところに行った時、急遽母と近隣地域に出来た家族葬を目的をした小さなセレモニーホールを見にいったりして、一番身近な家族がもしかしたら?となったときに初めて「死」とそれに伴う「もろもろのこと」を意識したのが始まり。それで今回のNPOの話を聞いてみようか、と思ったのです。

本来、おじさんは非常な怖がりで、特に「死」が怖い人なのです。怖さゆえに意識してしまう。だから高所とかアドベンチャー的なゲームとか冒険とか苦手なんですよね。恥ずかしいのですが、それがコンプレックスだった時代もあります。それゆえに逆に若きヒーローの死に心酔したりとか。それは全部「死が分からないから怖い」というところに尽きるところがあります。

生きづらいがゆえにジタバタし、例えば若者の悩み、NPOでいえば漂流教室さんのようなフリースクールや引きこもり支援や自助グループ、生きやすい仕事の仕方はないだろうかということを主眼に考えつつも、また「いのちの危うさ」にひきずる経済的な仕組みに異議を唱える心象もあるわけですが。
親の高齢化を通して「自然と死を意識せざるを得ない支援」についても最近意識しはじめています。

しかし、それはどうも自分にとっては二つの別のことではなく、同じことの裏返しの気もします。「気持ちよく生きたい」ことと「ゴールでじたばたしたくない」という、自分にとって二つのことは同じ思いで繋がることなんじゃないか、と思い始めています。

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