2023年1月18日水曜日

マザー、96歳。ハッピーバースデー(?)

 母親が今日で96歳の誕生日を迎えました。なんとか自宅で迎えられたのは良かったです。でも例年に増して体調不安あり。安易に因果を辿れば、昨年11月9日のインフルエンザ予防接種の全身副反応。誰も責められませんが、これが大きかったです。あのあと、次の週に初めて在宅で点滴、しばらく食事も進まなかったのだけど、11月下旬に一週間ショートスティ入所でなんとか持ち直しましたが、やはり下半身の力がぐん減りました。たとえば明け方にトイレに行って戻る時に力尽きてソファーやベッドに行き着けず、床にパンツ姿のままで寝てたりとか。起こすときも全身の力が抜けたようで、流石に今までと様子は違うなと。頭というか、意志も体に対して反射的にも働かすことが難しくなっているような。 
  
 年末年始は割と良くて。正月三が日は私が作った文字通り雑な雑煮を1日二回、完食してくれた。でも、4日からまたあまり良くなくて、床で寝てたり、食が進まなかったり。 
 そんなこんなその後の2週間。デイサービスに行った日は少しいいなと思ったら、週末の誰も来ない日はまるまるぐったりしているような様子とか。そして腰が痛いという主訴が増え、最初は気分なのか外傷かわからなかったのですが、先週金曜日のデイに行く日にまた床に寝転んでいたようで、腰痛の痛みの訴えが大きいですと。事ここに至って本当に外傷だとわかって、その日のうちに整形外科に連れて行ったら、腰の骨が一本、圧迫骨折とのこと。写真を見ても明確で、そのとき医者に「コルセットつけますか」と言われ、もう直ぐその気になったのですが、もうひとつ医者が言った「本人、コルセット扱えますかね?」という言葉が反芻されて。  
 帰宅して考えました。確かにリハビリパンツ以外の着衣が相当怪しいいまの母親。その上にコルセットで腰を固めたら、本人はトイレで用を足せるだろうか。そう考えてコルセットは保留にすることにし、痛み止めの薬を飲んでもらいながら、デイサービスやリハビリ、訪問看護の人に様子を見てもらい、アドバイスをいただきつつ考えたいと思いました。ちなみに昨日行ったデイサービス、今日も行ける日でしたが、本人がどうしても行けないと。見ていると足元のふらつきが気になるところ、ということでした。  

 月に一回電話で雑談している恩師の先生も話していたのだけど、今年が勝負じゃないかなと。なので、いろいろ本人のための方略を頭のなかで思い描き、転がしています。場合によったらグループホームへの転居もいよいよ考えた方が良いかも。厳しいこの冬のあいだはなんとか同居を続けたいですが。グループホームも検討事項に入ってきたかなと。もっかのところ、心配なのは転倒です。訪問看護師さんからトイレのそばにベッドを移動する提案もあります。ただそれも判断が難しくて。居間にベッドを持ってくると、ベッドに寝たままの姿勢が楽になって、寝たきりとなる心配を考えてしまう。 

  ぼくは現在、自分のことで何も懸念は無いのだけれど、同居の母親については幾つかの仮定とそれに対応する方法、どこをどう動かすのがベターなのかという判断の要素は抱えてはいます。状況の度ごとのアドバイスも必要なところ。
  あと、動きが少ないため、食事もあまり取れていないのが心配。父親が晩年の2年半近くどんどん食事が取れなくなっていたので、食事が取れないで虚弱化することにはすごく条件反射的に過敏になってしまう。  

 印象的にはそう、父親が亡くなった2年前くらいの印象に母も近くなりました。最近はダイレクトに傷つくような言葉とか、しつこい問いかけとかは減りましたが、むしろ身体の介護の側面が増えてきた感じです。今まで介護は自分が5、介護職の人たちが5、という感じでしたが、自分の負担が1、5くらい増えてきた感じです。  
 
 状況的には自然な流れでもあるし、かなり本人の寝ている時間が増えた(2階に上がってくる力がなくなった)。  言葉が悪いですが、しつこく付き纏われる感じがほぼほぼ無くなった代わりに、なんというのだろう?ぼくは変わらず自分の時間をふんだんに確保しながらも、常に状況が変化する可能性を考えている必要がある、という感じです。 

  結局、また自分の愚痴めいたことを書いてしまっている。母も頑張って日々生きてます。父のときも思ったけれど、本当に人間の仕事は、まずは「生ききること」これに尽きると思います。その意味で、本当に母は96年、いっしょうけんめいに生きています。すごいことです。頑張っていてえらいです。

2022年11月14日月曜日

母の体調

 先週の木曜日の午後に、母に季節性インフルエンザのワクチン接種を往診の先生にしてもらいました。例年してもらうことだし、コロナの3回目、4回目のワクチンもその往診の先生に私も含めてしてもらっており、母は副反応など全くない人なので、自分も医師もみな揃って過敏な意識などありませんでした。


接種して5時間ぐらい経つ午後9時頃。声が詰まって出てこない様子あり。明らかに様子が変だったので、熱を測ったら8℃8分。その時はコロナかも?と思ったり、あるいはワクチン接種の副反応?といろいろ思い巡らしたのですが。
次の日の金曜日。本人はベッドの下で寝ていて、慌てて起こして熱を測ってもらったら8℃台変わらず。バイト先は休ませてもらい、往診医に相談して、看護師さんに来てもらいコロナ検査、血液検査、解熱剤投与を。本人は今まで高熱など出したことがない人だったし、声がほとんど出せない明らかにおかしな様子で、その日はずっとベッドのある居間で対応してました。土曜日も変わらず、ただ熱は7℃台半ばまで下がりました。

昨日の日曜日はそこそこ落ち着き、飲食も少しできてきたので、今日バイトに出かけ、仕事先から訪問看護師さんがきてくれる時間に電話をしたらまた8℃あると聞いて、思わず8℃?と声をあげてしまいました。

そのあと往診先などもろもろと連絡し、明日から点滴をしてもらうことに。主因は飲めない、食べれないがゆえの脱水症状のようで、脱水で熱が再燃することもあるそう。コロナがまた急再燃してるいま、入院も脱水症状中心だけでは無理で、自分も自宅で本人をみる方が安心なので、安心できるまでバイト先も休ませてもらう了解を得ました。理解のあるところで本当に助かります。

点滴は一つは横で見てないと自分で針を外すかもしれないため、その防止として家族にいてもらいたいというのと、もうひとつは点滴頼みは駄目で、自分で普通に飲食ができるようにならないと、今後何かとまずいということ。
考えるとそれは「そのまま起きれなくなるということか」と正直、緊張しました。

今回身に染みて超高齢者の身体の脆弱性を実感しました。二日ほど高熱が出ても症状が落ち着けばふつうは元気が出るけど、超高齢者は身体にさまざまが条件が波及して一挙に危なかしくなるのだなと。

先述したとおり、コロナがまた再燃してますけど、世間の気分や政策方針と、高齢者や彼らと付き合い深い医療機関や高齢者施設は、もう三年近く安心感というものと縁遠いわけで…。もしかしたら多くの人の現状は、ある種の社会的調和や合意ができてるのかもしれないけど、超高齢者という存在との間では調和がなかなか難しいと思わざるを得なくて。本当にコロナはそういう状況を先駆的に伝えているわけで、今政治は大変こまった状況だけども、今後起きる必然的な人口構造の大きな変容は、社会の要請から必然的に政治を変えざるを得ず、私はそこに展望があるとも思っています。もちろん、真逆な方向へ向かうことへの不安はありつつも、なのですが。

……それにしても、また親の話しですが、一挙に手足から力が抜けてしまっているのには、気持ちがなかなか追いつかないのも確かです。

2022年10月30日日曜日

なお一層繋がりにくくなるー見当識障害やジャーゴン

  また親の認知症の愚痴になるかもしれませんが…

 最近、本人は昼間寝ていて、夜中に起きている現象がけっこうあるのだが、直近は真夜中に起こされるようになってきた。

 既に本人の中では朝夜の区別がつかなくなっているだが、そこはデイサービスに一日行っている日などは昼間活動しているので、夜は寝てくれるものかと思っていたけれど、むしろ昼の刺激によって、目が冴える傾向もあるみたいで。ただ、週2回あるいは3回のデイ以外の日は日中はほぼソファーで寝ているので、昼夜逆転が普通ではあり。そこら辺は既に傾向としては見られて、この秋口くらいは朝起きたらベッドではなくいつも座っているソファーで寝ていることが多い。ただ、今までテレビなどはつけず静かに座っていてくれていたからよかった。

 でも、最近は不安や寂しさが募るらしく、真夜中に「ご飯はどうする」とか、食事がらみで深夜というか、早朝、端的に丑三どきに起こされることが増えてきた。朝が早い自分には大事な熟睡時間なので、生理的にかなり腹が立つ。その度に「今寝ないと困る時間だ」「何時だと思ってるの?」とどうしてもこちらはクレームしてしまうが、その度に本人は「知らないよ!」と不機嫌をむき出しにするので、どうしても当方も気が収まらないし、確かに「時間感覚がない中で一人で起きて、関係のある人が誰もいない」というのは不安や寂しさが募るだろうな。今まで黙って耐えながら夜中起きてたのかなと思うが、睡眠、熟睡時間の自分はそう考えるゆとりはなく、「眠りにつきたい!」と思うから、腹立ちが先に立つ。

 こちらへの行動が今までなかったから、先週から今週にかけてこういう深夜帯に関わってこられる現象に「今後もそうなるのか。これが常態化するのか?」という不安と、一時的なものであればいいが…という軽い祈りにも似た気持ちになる。そういうことを吐き出したかった次第。


 もう一つ気になるのは、専門用語で言うところの「ジャルゴン」と言われるものだろうか。「意味性ジャルゴン的」なものの始まりが見られるのでは?と思う。簡単に言えば、“話のセンテンスが崩壊している“ような傾向がみられている。なので、母もいろいろ喋るし、喋りたい、話したいという要求があるのもわかるし、それに応えていきたいと思うのだけど、何しろ話を聞けば主述の意図が掴めないし、最近ではテレビ出演者との関係が自分にも関係しているというような物言いで、それをきっかけに私を呼んで「どうこうして欲しい」(その「どうこう」も本人が話し始めると意味がさっぱり取れない)と言うのも大変困る。

 なので、正直、時々情を込めて語りかけられても自分の方では身体が母の語りを受け付けないことに気付かされることも多く、申し訳ないような、でもどうしてもそうなるのは致し方ないんじゃないか、という気持ちに引き裂かれてしまう。


 意味不明な言葉使いはきっと子どもを育てる過程で子どもも親などに一生懸命やっているんだと思う。でも親がそこで多分粘り強く聞けるのは、子どもがその繰り返しの中で自分達大人と同様なコミュニケーションに至る実験的な発達過程であって、一般に子どもたちのその実験的な発達過程は親にとって微笑ましく見えるから「愛情」と密接につながる要素なのだと思う。

 その逆の過程、悪く言えば崩壊の過程を人はどう捉えられるか、ということなのだ。最終的に「死」に近い老いの深部に向かう親を見てポジティブに捉えることは極めて難しい。

 ただ、だからこれは自己防衛的に思うことなのかもしれないが、私の少なくとも認知能力、感情能力を正常に育ててくれた母親がそのようにして、普通の社会的コミュニケーションに耐えられない脳機能の者となったとして、それは老いの最深部に突入しているゆえのものだとすれば、おそらくのちのち私自身も全く同じではないとしても、つまり認知症とならないにしても、何らかの形で自分で自分を立たせられなくなる、社会的に自立機能を維持できないことが非常に可能性が高いものになる、という認識を現前にかつて寝たきりとなった父親同様、教えてくれているとも言える。


 なかなかそう簡単には諒解できないことだし、今後も例えば夜中に叩き起こされることが常態化すればこんなことを書く余裕は無くなるだろうが、「こうして、人は生物機能として終わりへと向かっていく」と言う現実を見せてくれているとも言えて、「成長」とか、「勝利」とか諸々のことが人の生涯の全体の一部に過ぎないもの、あるいは相対的に見られるものだという実感につながっている。

そう思うし、だからこそ、「有意義なフィクション」として成功だとか、アートとか音楽とかスポーツとかの自分ができもしないことでの「目利き」のふりに熱意を持つ。それも終わりいく肉体におののかないための人間としての生態に関する応分の防衛反応として大切なものだという納得にもなっている。そんな気もするのだ。

2022年10月10日月曜日

敬老の日は過ぎた祝日だけど。

9月の最終週から母親が通っているデイサービスでコロナ陽性患者が多発して、デイは一週間休業した。

10月の入りたての月曜日の早朝に母はトイレからベッドに向かうところで転倒したらしく。その日は報告を聞いたくらいで、火曜日も普通にデイサービスの再開に行ってくれたため、それほど気にしてはいなかった。

水曜日にバイトから帰ったら、珍しくベッドに寝ていた。曰く横腹が痛いと。様子がつらそうなので、次の日に在宅リハビリに来られる人がきてくれている時間に電話で様子を聞いた。確かに本人に主訴はあるけど、外傷はなさそうだと。

で、金曜日もデイサービスに無事行ってくれて安心はした。帰宅後本人に聞くと、まだ脇腹が痛いとの事だったが。


このかん、しばらく自分も考えた。母の衰えはまず認知症という脳から具体的な衰えがきて、今年の12月に要介護認定からの6年目が始まる。初期にはさまざま了解不可能な訴え、ヒステリー、それに対する私の対応の悪さで口論になったり、良くない循環があったと反省もさせられたり。2020年にコロナがやってきた5月のGWは共に過ごす時間の多さに振り回されてとてもしんどい時もあった。


あの頃から2年以上経ち、96歳近い年齢相応な身体的な脆弱性も加わってきた。その分、逆にこちらを振り回す言動も徐々に減ってきたと思う。

脳だけでなく、身体のエネルギーの衰えが垣間見れて、それはまず脳の衰えに伴い現実現象の理解ができない、例えばテレビの内容が把握できないし、あるいは新聞も内容を理解できない。そのように、現実と向き合う手がかりがないゆえの退屈や寂しさのために在宅時はひとところに座ったまま昼夜過ごして夢現を過ごす。身体を意識的に動かすということがないので、自然に身体、脚力なども衰える、食事の量も減るなどで具現化する。そこには相互性と相乗性があると言える。


それゆえに、私にとっての救いはデイサービスに通ってくれることと、週一回来てくれ母親の様子を細やかに連絡ノートしてくれる訪問リハビリに来てくれる人の関わりだ。家人が自分しかなく、その自分も充分に関わってあげている自信がないので、珍しくソファーで寝てるのではなく、ベッドに昼夜ずっと寝ている姿を観て考えたのは、やはり寝たきり状態に近づくのはいつか、或いはそうそうそれはないのか。内臓疾患がないならば、今回のように転倒など不慮の事故で一度に悪化するのか。


今のところこれらは観念的な悪い想像だが、それはネガティブでもポジティブでもなく、冷静に母親のクオリティオブライフを考えたとき、同居の選択がいいのか、グループホームに移行するのがいいのか、リアルに考えるのは避け得ないなというポイントにきつつあるという思いだ。

そういう介護におけるネクストステージについていつになく考え始めた。そのような話を月に一度さまざま思うことを恩師のかたと電話で話したときに言われたのは、「100まで行くにはここから1年が勝負だろうな」という言葉だった。


そして今日、上記のことを自分としては洗いざらいケアマネージャーに話した。そして在宅の限界の次があるとすれば「老健を通過して特養か、それともグループホームか」ということを尋ねた。ケアマネさんがいうには「グループホームでしょう」と。やはりそうか。

いわばグループホームは、雑な例えで言えばデイサービスを生活の場とするようなイメージ。老人保健施設はどちらかと言えば医療福祉施設のイメージで、原則はリハビリ機関としてリハビリの目的は在宅介護に移行させる。それが正しい運用のようだ。だから、リハビリで日常を回復するのが医療枠で考えにくい認知症に関しては、むしろケアでの対応、生活介助の対応が向いていて、グループホームが適任らしい。


こうやって老いを見詰めていくことを自分の日常の大きな要素の一つに組み込みつつ、サービス調整をしてくれる存在と腹くれなく話せるのはありがたい。

ケアマネさんが歳が近いステーション責任者から若手のケアマネさんに代わって一年になるが、一生懸命に耳を傾けてひとつひとつの不安に応答してくれるのはありがたい。

不肖な子どもであるので、外部サービスへとほぼ依存なのだが、なんだかんだ長期にわたる介護サービス受給なので、基本的にこのまま人員がデイサービスを含めて動きがなければいいなと強く思う。


その意味では、ずいぶん自分は保守的になってきたなと思う。

2022年8月12日金曜日

ふと思いたち。。。

 久しぶりにブログに書こうかな、と思う次第。

というか、今後主流であるnoteには、インタビューの内容を特化して載せようかと思いまして。

日常のよしなごとはグーグルブログに書くのが楽かなと。Twitterを文字通り短文ブログ的に使っていたのですが、どうも140字の制限や、何かとTwitterも社会性や公共性が強まって、簡単コメントはできるのですが、もうちょっと考えている部分とかはツリー状になってしまうので、あんまりよくないかなと。

また、noteに今まで認知症の母親との生活で局面ごとに思い込むことも書いていましたが、ごちゃごちゃになるので、こちらの方が良いかもと。

インタビュー後記のブログも残していますが、後記もどうだろう?書き続けるかどうかはその時どきかなと。

なので、こちらのブログで一応しばらく日常性の延長で思うことをカジュアルに書くかもしれません。長く書く癖があるので、気楽にちゃっちゃと書くことを心がけたいです。

きちんと書くということでは、今までブログ時代に長く続けたのは、最初は洋楽のブログであるTeaCupに書き続けていた「Bridge」というブログがあったのですが、テイカップがブログサービスをやめたので今年の8月1日に閉鎖されてしまった。積年ほったらかしにしていた自分も良くないのですが、ホームページを作り、ブログサービスが始まって、これはありがたいと思った時から使っていたブログなので、愛着もあり、情報を他のブログに移行させようとして、実は今月末までサービスが継続と思い込み、iPadのIOSではダメなのでパソコンを引っ張り出してお盆以後に作業をしようと思ったら。8月1日で停止された次第。惜しいことをしました。

あとひとつ、きちんと書いていたブログに「夢のでこぼこ」というブログも持ってます。これは情報が残っているのですが、こちらも長年放置している間にID、パスワード共に入室できない状態になっている。割と情報量豊富なので、「本当に暇な人」はリンク先に飛んでみて確認してくれたりすると、

嬉しいなぁ、、、、とよ!👍

リンク先はこちら!👇

https://clashcity.exblog.jp/

2021年1月11日月曜日

阿久悠 『生きっぱなしの記』




歌謡界の大作詞家、阿久悠の自叙伝を読む。自叙伝のようなものは、この一冊だけというわけではないのかもしれない。阿久悠は小説も書いて直木賞候補にもなっているし、作詞家として膨大な作品以外も著述は多いと思う。でも、おそらく誰でもわかりやすい形での阿久悠のエッセンスはこの本の中に凝縮されているのではないか(憶測です)。


僕は70年代の後半近くまでは歌謡曲も聴いていたと思うけど、70年代の終わりに英国の新人を中心としたロックばかりを聴くようになって、80年代は歌謡曲への関心が極端に減った。たまたま阿久悠は歌謡曲の黄金期である70年代が始まり、大晦日のレコード大賞なども権威ある時代の流行歌作詞家なので、世代的にたくさん知っている流行歌の作詞家だ。でもかつて「職業作詞家」に関心を持つなど自分の中で思いもよらないことだった。その意味でも唐突な阿久悠の作詞集ベストアルバムを聴き込み、合わせての本書だ。全くの「学び直し」なのだ。


全ては、昨年11月にエレファントカシマシの宮本浩次のソロ、女性歌手の歌謡曲カバーアルバム、「ロマンス」の影響から始まっている。(歌謡曲と言いづらいのは、本編ラストの宇多田ヒカルくらい)。自分でも驚く洋楽主義からの(特に最近は60年代などのブラックミュージック全般)大転換である。


宮本のカバー集は自分が通して聞いても「王道ど真ん中」の歌謡曲カバーなので、最初はアルバム自体が「70年代阿久悠」の印象だったのだが、実際のところ、むしろ職業作詞家的な立ち位置では松本隆の存在が大きい。彼の小中学時代は松本隆が作詞家として阿久悠になり代わる王道となり、アイドル歌謡の黄金時代だろうから、必然そうなるだろう。(アルバムでは同じ比重で松任谷由実の存在もある)


なので、今度は改めて一度、松本隆と阿久悠のメンタリティの違いも考えてみたい。(阿久悠、生まれ昭和12年(1937年)、松本隆、生まれ昭和24年(1949年))。


この自伝は2001年、910日に阿久悠自身の腎臓ガンの手術のために入院をした時から始まる。

阿久悠の美学で興味深いところとして、癌であることを家族以外には一人にしか伝えていない。その理由は「弱みを見せないことと、借りを作らないこと」を芯にして複雑な社会を生き抜いてきたゆえ、心配も同情も耐え難いという思いからだ。だが、病院で目を疑うような911、ニューヨークのワールドトレードセンターに飛行機が突っ込む映像を見てしまう。

その時、自分のガンと、歴史を分かたれる瞬間を重ねる。そして書かれた「私の履歴書」がこの自叙伝とのことだ。「未来を志向する精神と過去を検証する心」が自分の中にあることを自らに認めた瞬間だったという。

自叙伝は日本経済新聞の51日から531日の間に一気に書かれた。


阿久悠は前述したように昭和12年に淡路島に生まれた。父親は平凡な警察官で、淡路島内の警察署や派出所で転勤を重ねた。だから転校を重ねた結果、故郷意識が薄く、詞も「明日にはよそに行く人ばかり」だった、という記述は興味深い。

もう一つは、阿久悠は典型的な戦中の子どもだ、ということも強調されて良いだろう。子供の頃は国は戦争をするのが仕事と思っていた。そして、甘さや美味というものが物心初めからなかった。その前の世代にある甘さや美味というものの徐々の喪失感がない。

「戦後は明るかった」のは、封印されていたものがいっせいに飛び出してきて、それらと初対面の歓びを感じたからだった、という。だから、戦争の頃が「暗い時代」と気がついたのは、戦後になって比べるものを手に入れてからだ。


子供心に国は戦争をするのが仕事、甘さも美味も、禁欲だとは思わなかったということ。この子供の頃の経験と、後述する思春期の経験の二つが阿久悠を形作る大きな点だろう。

その中で「ラジオ」を省略しては、のちのちの職業人としての自分を、理解できなくなると阿久悠はいう。戦後社会をビビットに伝える第一人者はラジオであった。

のど自慢が21年から始まり、日本人が突然歌うようになった。

日常の小さな神々は「野球、映画、流行歌」。これが民主主義の三色旗だった。


そして、阿久悠を阿久悠たらしめるもう一つの原体験は、中2の時に発覚した結核である。終日天井を向いたまま寝ている生活は、思春期後期の少年を絶望的気分にさせるものであった。また、医者は中三の二学期から学校へ行く条件として、「激しない」ことを命じた。つまり、「はしゃがない、興奮しない、怒らない」ことを守るべしと。14歳の春の結核と、医者が課した条件は、その後の人生を大きく変えた。激情を抱かずにいきることが、どれほどつらいことか。結核になったことにより、知性と体力のバランスをとって生きることが困難になった。すると、文章を書くか、絵を描くしかない。

それでも胸を破らず激情と共棲する方法は見つかる。たとえば、スポーツは出来ないが、スポーツを一瞬の予測不能な芸術と見ることで、激情も感動も増幅させ得るのだと気づく


優秀な成績で県立の洲本高校に入学するが、目標が見えず、映画館に入り浸る。だが在学中に母校が高校野球で優勝した。淡路島からステップを置かずに「日本一」などあり得ないことだと思っていたから、頭を叩かれるような気がして、その時から心がひらけた。母校優勝以来、映画を見るのも東京を知るための学習のようになる。


明治大学を卒業して広告会社に彼は入社して、一つの大きな転機となる出会いが生まれる。「上村一夫」という才能に入社して3年目に出会い衝撃を受ける。彼との出会いから、阿久悠が詞を書き、上村が自分のギターで歌うようになった。その何ヶ月かの無意味な遊びが、阿久悠の唯一の歌謡曲修行になる。


広告会社は居心地が良かった。だが、何らかの屈託は昭和39年の結婚で本気に世に打つ志を強める。退社の際に書いていた200本の企画書は、上村一夫の劇画の原作になり、何らかの形で阿久悠の作詞の中に生きた。


同時に、放送作家、阿久悠というペンネームの仕事と広告会社で本名を使うハードな二重生活を2年間行う。大抵でない事ができたのはやっと世間と繋がった思いと、この程度では終わらないと言う野心だったと述懐。


そしてビートルズを契機として、続出したグループ・サウンズのコンテスト番組をやりたいと言う話で企画者として呼ばれる。


ビートルズの誕生後、1970年代にフリーの作詞、作曲の作家時代が訪れる。

阿久悠の作詞家デビューは、昭和43年(1968年)。GSグループであるモップスの「朝まで待てない」。だが、本当はシナリオライターか、小説を書きたかった。

そして北原ミレイのために書いた、「懺悔の値打ちもない」で、タブーだらけの歌詞を書き、批評家受けもよく、作詞家になる決意を固めた。結婚に伴う真剣に将来も考え始めていた時でもあった。


職業作詞家として生きる気持ちが固まり、今まで誰も書かなかった匂いの歌を、偶然による「隙間探し」ではなく、作詞家阿久悠の思想、個性で固めると決意する。窮屈でも、それに則って書くと。それが阿久悠作詞家憲法十五条だった。この憲法の本則は、「美空ひばりで完成した日本の流行歌の本道」とは違う道を行けないか、という時代を見つめた中での思索だった。美空ひばりと同い年の阿久悠は、何とか美空ひばりが歌いそうにない歌を、と考えた。


その15条には、

日本人の情念や精神性は「怨」と「自虐」だけでいいのか。そろそろ都市型生活の人間関係に目を向けてもいいのではないか。個人と個人のささやかな出来事を描きながら、それが社会的なメッセージにすることは不可能か。「女」として描かれる流行歌を「女性」に書き換えられないか。「どうせ」や「しょせん」を排しても、歌は成立するのではないか。七五調の他にも、音楽的快感を感じさせる言葉があるのではないか。歌に一編の小説、映画、演説、一周の遊園地、これと同じボリュームを4分間に盛ることは可能ではないか。時代の中の「飢餓」に命中するのがヒットではないか。


ーーー云々というもので。これらの思索は今の歌の世界ではほとんど克服されてしまった「かつて」のものばかりと言えるだろうけれども、阿久悠が花開く時代には全く新しかったのであろうと思う。(その前の時代がどうであったのか、そこまで詰めて考えると美空ひばりも考えなくてはならなくなり、詰めの作業が大変w)つまり、阿久悠が作った流行歌の時代は現代感覚のオリジナルを切り開いた先人と言えるだろう。


もともと企画屋でもあった阿久悠が企画から関わった伝説的な番組、「スター誕生!」は1971年から始まる。そこから審査員の役割を通して偉大な作曲相手を見つける。中村泰士、都倉俊一、三木たかし、森田公一などなど、である。そして70年代、阿久悠は歌謡曲の世界で作詞家として、ほぼ十年近く名曲の数々の詞を書いて1970年という時代を駆け抜ける。


自叙伝の後半は両親の平凡な人生の終わりと、自分の記念パーティでの学校の先生の自分の文章への褒め言葉や、寡黙な父が言った「お前の歌は品がいいね」という言葉を心の支えにしてやってきたとスピーチの叙述になり内容は概ね終わる。


短期に実に起承転結のストーリーを分かりやすく伝えてくれるさすがな表現者の自叙伝だと思うが、内容は存外、阿久悠自身の子ども時代(淡路島時代)と、晩年の両親の話に多くのページが割かれ、意外と自分の仕事のさまざまなことが多く語られているわけでもない。確かに北原ミレイの詞がレコ大の作詞賞を受賞できなかったことに腐った程度のことは書かれている。だが何となくの読後感としては、70年代の大作家を形作った少年時代、そして自分を生み育てた両親たちの生き様のひそやかな影響というものの意味の方が大きい感じがする。


あえて松本隆と比較して思うのだが、阿久悠には、戦後日本の高度成長とともに人々にそれと伴う心の飢餓への意味を与える「使命感」のようなものを感じていたのではないか、という感じがする。そんな密度の印象がある。


それはけして声高ではない。本人自身が書くように、

「考え深くて、意志的。仕事のあり方は人並み以上に大胆さを示してきたが、人間的無茶を通したかというと、そうではない。」という通りの、そしてそれが美学であった、という印象と意志を感じた。


最後に収録された詩が凄い、素晴らしいのだ。ぜひ本書を手に取る機会があれば、一読を。


「ぼくは 歌を書く

歌がいちばん呑み込みやすいから

歌を書く

歌は言葉 言葉は知性」






さて、ここで自伝に合わせて阿久悠のベスト盤、「人間万葉歌」に転じてみたい。(オークションで安く手に入れたBOXセット)。

何しろ名曲、名詞揃いである。沢田研二、西城秀樹、ピンクレディ、都はるみ、岩崎宏美、尾崎紀世彦「また会う日まで」ペドロ&カプリシャス「ジョニィへの伝言」「五番街のマリー」、そして和田アキ子、「あの鐘を鳴らすのはあなた」・・・・

北原ミレイの「懺悔の値打ちもない」から、河島英五の「時代おくれ」。立て続けに二曲が並んでいる。そこに職業作詞家として出発点である美意識の始まりと、成熟の違いが自分には明確にあると感じた。

 北原ミレイへの詞には、時代を睨み、新しいことを始める挑戦者の反抗の美意識があるし、後者には人生への円熟の美意識がある。で、円熟の美意識には、子どもの頃にきっと美しいと思った倫理観への、長い旅を経た円環、戻っていった感じがある。このボックスセットには阿久悠自身への長文のインタビューも付属されている。そこでの発言。


「ぼくの」痛みなんだけど、「万人の痛み」としてそれをいかに表現するかに全力を注ぐわけです。


終戦直後は、女の歌手は全部ブルースだった。

男は「憧れのハワイ航路」なんてのを歌いまくっていた。逃避する時は必ず高音になるんですよ。


北原ミレイ 「懺悔の値打ちもない」https://youtu.be/zY1zw0vuGeo


沢田研二 「時の過ぎゆくままに」https://youtu.be/1Qi7c-pcq-A


尾崎紀世彦 「また会う日まで」 https://youtu.be/o-bMKTK3Dss


ぺドロ&カプリシャス「ジョニィへの伝言」https://youtu.be/JcSbTMLcryA


おまけ ズー・ニー・ヴー 「一人の悲しみ」 https://youtu.be/rfY0nJu1rvo

(大衆歌謡曲が、どういう歌詞で初めて受け入れられるかという典型。もちろん、尾崎紀世彦という不世出なボーカリストがいて、「また会う日まで」というミリオンセラーが生まれたのだが)


そして。今の時代にこそ、この曲の持つ意味の大きさを感じざるを得ない。阿久悠作詞の楽曲で、メッセージ性が普遍性を持つ日本の歴史に残るだろう名詞名曲。


和田アキ子 「あの鐘を鳴らすのはあなた」






2019年1月14日月曜日

昨年の10冊ー国権と民権

続けて今回は少し生臭い世界、保守政治の平仄に関する本でございます。

『国権と民権』(集英社新書)佐高信×早野透

朝日新聞政治部記者だった早野透と評論家の佐高信による自民党政治家の味わいある人たちを論じた本。今回の「#昨年の10冊」の中では一番読みやすいが、いわゆる「放談」とは違い自民党一党支配の中でも、まだ政治家の思想や体質の中に幅や深みがあった時代があったんだなということが分かる、日本の戦後民主主義の建前と本音のコントラストの中で自民党の代表的だった政治家たちの資質がわかる本。柔らかい対話の中でも質が高い。
 いわゆるYKK(加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎)時代の中でも特に加藤紘一、そして山崎拓。加えて、今もテレビにコメンターとして出てる田中秀征。剛腕といわれた小沢一郎に各章を割きながら、その背景に土井たか子や辻元清美、保坂展人などの市民派政治家、野中広務などネゴシエーターでありつつ人間臭い政治家のエピソードを絡ませ、上記政権政治家たちの理念と人間性を浮き出す。いまや語るべき政治家がいない安倍一強時代を批判的に検証するためか、歴史的に少し前の政治家たち、本の論者に近い世代。つまり団塊世代の政治家たちを中心に見ているので、彼らの動向や人柄などを見つつ、彼らが政治思想的にどう位置付けられるのか分析されていて、それを振り返ることで平成政治史としても読めると思う。

 国権と民権というタイトルを解説すれば、自民党の左派政治家宇都宮徳馬曰く、もともと自民党には自由民権運動の流れをくむリベラルな系譜と、民権運動を反国家的なものとみなし、戦争中は軍人政治を推進した系譜の二つがあったということらしく、前者が民権派、後者が国権派である。

 民権を支持する対話者二人は故人となった加藤紘一についての語りに多くを費やす。思い起こせば2000年の森喜朗政権の内閣不信任案に賛成票を投ずる表明をした「加藤の乱』失敗で加藤紘一の政治生命は絶たれた。政界のプリンスと呼ばれた加藤がもし順調に総理大臣になっていたら……。いまの国権主義安倍時代を無念に考える時、対話者は(そして読者のぼくも)加藤紘一の不在とその短慮が惜しまれ、アメリカ従属の政治が不変であったとしても、権力への意識が違うことで何とか国民に加えられたダメージが軽減されたかも?という想像もし得る。
 ただ、この自民党ハト派のプリンスはどこかでオーソドキシーから外れていこうとする無意識があった。そのハイライトが加藤の乱という表現であり、権力闘争なのに闘争の戦略的イニシアチブや、狡猾には振る舞えないインテリの弱さがあった。戦後民主主義の思想を深く学んでいたが、知的な理解であって、それを体現する身体性が弱かった。だが、同時にその現実面での頼りなさに反して、思想面での首尾一貫さは確固としていた(首相になった小泉純一郎の8月靖国神社参拝を批判して右翼に自宅を放火される)。

 また、民権派のもう一人の代表としては政界きっての理論家、田中秀征がいた。田中秀征の出自は政治家の血統でなく、自分の論理を政治で実践しようとする人なので、何度も落選を経つつ国会に入るが、結果、その卓越した理論が嘱望されて彗星のように細川政権のブレーンとして登場する。その後も自社さ政権で活躍する。
 加藤紘一、田中秀征。両者ともに知性派肌でそばに剛腕を振るえる世俗性現実性優位の政治家を持たなかったゆえに権力のトップ側に立てなかったが、それゆえにか、普通の人たちの情感がわからない人たちではなかった。知性だけではなく、心の中に人間の生きることへの必死さ、深い悲しみに共感する感性を持っていたと伺える加藤紘一。まごうことなき庶民の母親を持ち「政治家になるなら戦争にならないようにしてくれ」という母親の言葉をずっと覚えている田中秀征。
 田中秀征の中にはそういう庶民の「狭いけれども深い人生」を大事にする感性ゆえに国のかたちとして「質実国家」「小日本国主義」を標榜する。いわばぼくなどが青年時代頃まで聞いた「日本をアジアのスイスにしたい」という理想であろうか。加藤紘一には小日本国主義的な国家の枠組みまで同意できたかはわからないが。

 反対に国際社会の中の日本を考えた時、日本が国際社会に背を向けてはいけないと考えて国際協力を訴えていたのは政界で権勢をふるっていた頃の小沢一郎で、その頃の小沢は国権主義である。その小沢一郎の国権から民権への揺れは小沢一郎なりの論理の一貫性とは到底相容れない安倍政治への批判精神と、もともと田中角栄の弟子として、田中角栄にあった国民生活の安定が第一への遺伝子の回帰かもしれない。それは21世紀の小泉政治以後に起きた格差社会、地方切り捨てという現実への危機感から生まれた思索の転回かもしれない。今では野党党首として共産党の志位委員長と最も話しが合うという。

 民権について語る対論のラストは市民派政治家への高い期待である。社会党土井たか子という市民派リーダーのもとに集った市民派政治家たち。特に女性議員。もともと政治から排除されていた胆力のある女性政治家の中に今後の民権政治の未来を見て、現在の国権主義の対抗勢力の想像力を読者に感じさせてくれる。
 政治を忌むものたちとして、権力者の上から目線の近寄りがたさはやはり否めないし、マスコミの政治番組がそれを煽った時代が長いゆえに自民党系の政治家の話なんてと思うかもしれないけど、政治はボトムアップかトップダウンかと考える際にわかりやすく有効な本だと思うし、例えば「市民活動促進法」は国権主義者、中曽根康弘の代理人によって「特定非営利活動組織法」に変えられたが、市民活動促進という名称での法律であればそう簡単にいまの時代に閉じ込められたか、という想像力を働かせることもできると思う。そんなことにも考えに及ぶことができる対論本です。